近現代史5、日中戦争(昭和12年)
1、三郎「昭和7年に満州国が建国された。勿論これは日本の傀儡(カイライ)国家じゃ。傀儡とは〔あやつり人形〕じゃ。傀儡国家とは、〔一見独立国だが、実は日本が思い通りに扱える国〕ということじゃ。昭和8年8月の閣議で決定した『満州国指導方針要領』の『満州国に対する指導は、規制における関東軍司令官兼在満帝国大使の内面的統轄の下に、主として日系官吏を通じて実質的に之を行わしむるものとす』がそれを示しておる。明治43年に併合されて日本の一部となった朝鮮に接している満州国は、日本にとって、まさに山県有朋のいう利益線じゃ」
2、六郎「利益線は、だんだん広がる?」 三郎「そうじゃ、そうじゃ。朝鮮は最初の利益線じゃったが、それが併合されて日本国になると、利益線が更に満州に広がり、更にその西の蒙古にも・・・、ということになるんじゃ。この頃(昭和7年8月)に石原参謀は関東軍から出て兵器本廠付になるんじゃが、それ以来、むしろ日本軍の拡大意欲はより強くなっていったぞ。先ず、昭和9年頃からの〔華北分離工作〕じゃ。華北地方ちゅうのは、中国領の河北省・チャハル省・山東省・スイエン省・山西省のことじゃ。満州の西南側(万里の長城のすぐ南側)地域のことじゃ。北京とか天津は河北省にあるぞ。その華北地域に日本の支配力を及ぼそうというのが所謂〔華北分離工作〕じゃ。それを、日本の支那駐屯軍と関東軍とが、互いに協力するような、競うような・・そんな形でやったんじゃな」
3、三郎「その頃の中国では、蒋介石がもっとも勢力を持っていたが。まだまだ、各地に将軍が割拠していた。それに対して関東軍・支那駐屯軍が、口実(天津日本租界で親日系中国人新聞社社長が暗殺された・・非武装地帯を足場に満州国内へゲリラ攻撃がなされた・・等々)を作っては、武力で圧力をかけたうえで、昭和9年6月10日の梅津・何応欽協定や6月27日の土肥原・秦徳純協定などを結んだ。それらによって、河北省から中国国民政府直属の政治的・軍事的機関が河北省から撤退させられ、チャハル省から国民政府機関や中国軍が撤退させられた。8月6日、日本の軍中央は『河北・山東・山西・チャハル・スイエンの河北五省を、南京政権の政令によって左右されず、自治的色彩濃厚なる親日・親満州地帯たらしむることを期す』と関東軍・支那駐屯軍に指示した。これこそ〔華北分離工作〕なんじゃ。満州を抑えたから、次は、その西南方の中国北部地区を支配下に入れようという訳じゃな」
4、六郎「華北分離工作の目的は?」 三郎「まずはソ連対策じゃな。五カ年計画やって軍備を増強しつつあるソ連は、日本陸軍最大の敵じゃから。北のソ連に対しては。満州だけではなく、更に西の華北地区でも守りを固めねばならん、ちゅう訳じゃ。それと中国共産党そのほか、中国側からの反満抗日攻勢に対抗するためにも、華北を抑えておきたかったんじゃ。更に、第一次世界大戦以降兵器が進歩して戦争が大規模化し、軍隊の強弱だけではなく、国の経済力・生産力などの総力で戦うことになった。所謂国家総力戦体制が必要になってきたんじゃ。そこで、戦略物資獲得の為には満州の地下資源だけでは不足で、華北の鉄・石炭・棉花などが欲しくなったんじゃな」
5、三郎「こういう強引な工作をやると、当然、中国人たちの反日行動は激しくなるもんじゃ。よく、この段階からだけを取り上げて、〔中国側の反日ボイコットなどがあったから、日本は居留民保護などのために兵力を送り込んだ〕という御仁もおるぞ。あの〔満州事変は中国人たちの満州国独立運動を手助けしたんだ〕という説明をする渡部名誉教授たちと同類じゃ。ものは言い様じゃが、歴史は因果関係をしっかり見んといかんぞ。華北分離工作は、例えば、昭和10年8月1日の中国共産党の〔抗日八一宣言〕を生み、中国学生を〔抗日一二九運動〕に駆り立てた。この頃、蒋介石が張学良の督促の為に西安に行ったら、張学良に監禁・説得されて、〔共産軍をも含めた一致抗日をする〕の合意をさせられた。中国は〔内戦を停止して、一致して日本に対抗する〕ということになったんじゃ。これを〔西安事件〕と言うぞ。これによって中国国民党(蒋介石ら)や中国共産党が昭和2年以来の内戦を停止し、所謂〔国共合作〕をしたんじゃ。中国側の対日強硬姿勢が顕著になった。日本にとっては、由々しき事態じゃな。昭和10年12月のことじゃ」
6、三郎「石原莞爾(参謀本部作戦課長、昭和12年5月から第一部長)は、もともと〔対ソ戦重視派〕であったが、それ故にこそ、むしろ、〔華北分離工作に、あまり勢力を注ぎ過ぎてはいかん〕という判断をしていた。が、日本の政治情勢の不安定や、陸軍内部の意見の分裂などもあって、華北分離工作の修正もままならず、依然として、日中間は危機をはらんでいた。・・・そんな昭和12年7月7日夜、河北省北平(ペーピン)郊外の廬溝橋(ロコウキョウ)付近で日本の支那駐屯軍が夜間演習を行っていた。そこへ中国軍の方角から数発の銃弾が飛来して頭上を通過した。誰が発砲したか未だに不明じゃ」
7、三郎「発砲はあったが、日本軍も、いっとき、何とか平和に治めようとしたんじゃ。そんな中で、支那駐屯軍第一旅団第一連隊の連隊長牟田口廉也(ムタグチレンヤ)大佐が中国軍攻撃を命じたんじゃ。これが日中戦争の開始じゃ。この後の8年にわたる戦争の発端じゃ。まさに歴史の転換点じゃ。ことは重大じゃ・・・・、ところでその牟田口連隊長は、7年後、第15軍司令官として、昭和19年3月に、無謀きわまるインパール戦を開始して、インパール街道を、敗走する日本兵の死体の山にしたんじゃ・・インパール作戦では、戦死30、500人、傷病42、000人とされておるぞ。言いにくいことじゃが、〔前途ある若者たちの、まったく無駄な死傷〕じゃ。指揮官牟田口の責任は極めて重大じゃ。幼年学校に始まる陸軍将校養成学校には、こういう生徒がたくさんおったぞ。〔名誉・権威だけの人命軽視人間〕じゃな。要は超エゴ人間じゃ。軍幹部の教育は極めて重要だぞ。日中戦争・太平洋戦争の経験が、自衛隊幹部の教育などに生かされておるんかのう??おそらく忘れられておるじゃろうのう?〔歴史は学ばれずして、愚が繰り返される〕んじゃ」
8、三郎「日中戦争開始時の暴走者は、勿論、牟田口連隊長だけじゃないぞ。近衛文麿首相は、7月10日の〔関東軍2個師団・朝鮮軍1個師団・内地3個師団の華北派遣〕という陸軍の提案を翌11日に承認し、葉山に避暑中の天皇の許可を得るべく駆けつけたんじゃ。かくして、軍中央から停戦交渉中だった支那駐屯軍に対して、〔中国側にとって過酷な条件を提示するように〕という指示が飛んだ。・・ここで脱線するが・・昭和12年1月1日付の『東京朝日新聞』に近衛首相がこんな文を寄せておったそうじゃ。『中国が自ら開発の力がおよばざる天賦の資源を放置して顧みないというのは、天に対する冒涜ともいい得るが、日本は友誼の発露として開発をなさんとするものである』・・・わしゃ、〔ホンマかいな?〕と言いたいぞ」 六郎「ホントにホントですか?」 三郎「記録にあるんじゃから、ホンマじゃろうのう。こういう気持で政治やれば、廬溝橋事件直後の首相の行動になるのは当然じゃな。参謀本部第一(作戦)部長で、当初不拡大派だった石原莞爾少将も、7月26日の支那駐屯軍司令官香月中将からの〔兵力行使申請〕に対して、『徹底的に膺懲せらるべし』と返電したそうじゃ。こりゃあ、まさに、〔雰囲気開戦〕じゃな」
9、三郎「かくして、昭和20年8月までの8年間続く日中戦争が始まったんじゃ。日本軍は、南京や漢口を占領して意気軒昂だったが、中国軍は重慶という奥地に下がって頑強に抵抗した。日本は戦争を終わらせることができないまま、中国を応援していた英米との戦争に追い込まれたんじゃ。日中戦争→太平洋戦争は必至じゃった。・・日中戦争の日本軍死者は40万人。傷病者はその数倍じゃな。若者から中年までの死傷者じゃ。あの作家・井上靖さんも昭和12年8月25日に、30歳で召集令状をもらい、2等兵扱いの特務兵(最低クラス)で北京郊外を250キロ行軍したそうじゃ。彼の手記には、『話は招集解除の話ばかり。神様!一日も早く帰してください』とあるぞ。余程つらかったったんじゃなー」
10、三郎「満州事変から太平洋戦争までの日本人の死者は310万人(傷病者は2000万人前後?)。内、本土空襲による一般国民の死者30万人(被災家屋250万戸?)と言われておるが、その中央部分に日中戦争があった。当時の日本のトップは、近衛・東条など無責任・無経綸人間だったし、軍幹部には牟田口的人間が多かった。天皇も時に好判断したが国を動かせなかった。まったく、取り返しのつかない大悲劇じゃ。なお、この間の中国人の死者は1000万人ないし2000万人と言われておるようだ。〔白髪三千丈〕の国の発表じゃから、いささか誇張はあるにしても、膨大な人命が失われたことには違いあるまい」
11、三郎「最後に、『加藤陽子著・それでも日本人は戦争を選んだ』から、当時の中国指導部の二人の人物について付け加えておくぞ。故適(コテキ)と、汪兆銘(オウチョウメイ)じゃ。先ず故適。北京大学教授(社会思想)で、蒋介石に抜擢され、昭和13年には駐米大使になった。彼は日中戦争勃発の2年前(昭和10年)に『日本切腹、中国介錯論』を唱えている。それは次の通りじゃ。『①中国は、日本に対抗するために、海軍力のアメリカと陸軍力のソ連の力を借りねばならぬ。日本はこの2国の軍備が整わぬうちに、中国にダメージを与えにくるであろう(事実、昭和6年満州事変、昭和12年日中戦争、昭和16年日米戦争。昭和20年日ソ戦争)。②アメリカ・ソ連を日中戦争に引き込む為には、中国が戦争を正面から引き受けて、2~3年間負け続けることだ。満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなると、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。世界中が中国に同情する。英米および香港、フイリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。・・日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は〔日本切腹、中国介錯〕というこの八文字にまとめられよう』・・・・汪兆銘は、蒋介石を裏切り、昭和13年末にハノイに脱出して、南京に日本の傀儡政権を作った人間じゃ。当時から、わしゃ、その名前を聞いておった。〔日本の味方じゃ〕と思うちょった。・・・彼は、昭和10年に胡適と論争したんだ。・・『胡適の言うことはよくわかるが、3~4年にわたる激しい戦争を日本とやっている間に、中国はソビエト化してしまうぞ』ちゅうたんじゃな。つまり、汪兆銘は〔中国がソビエト化(共産化)するのを防ぐために、日本と妥協する道を選んだんだ〕ということだな。彼が非難されたときに、彼の夫人は『蒋介石は英米を選んだ。毛沢東はソ連を選んだ。自分の夫は日本を選んだ。そこにどんな違いがあるのか』と反論したそうじゃぞ。なかなか凄い奥さんじゃな!・・ともあれ、中国は共産国になり、現在もそうなんだから、・・〔汪兆銘の予言は的中した〕、ということは間違いないな・・」
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