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2009年10月

2009年10月31日 (土)

〔政権に〕、〔子供大人が〕、〔二人居り〕・・・・・

三郎「〔政権に〕=〔与党民主党と政府に〕。〔子供大人が〕=〔子供みたいに未熟な、低レベル人間が〕。〔二人居り〕=〔小沢と亀井が居るわい〕・・・・①小沢(この前も同じこと言うたが)。無駄使いを防ぐために、政府が、事業仕分けに民主党新人代議士を使うたら、〈新人教育の方が大事だ〉と、小沢幹事長が文句つけたそうじゃな。これには、〈わしや、怖がられる存在=実力者、と言われて居る。その評判を維持せんといかん〉ちゅう根性が見え見えじゃ。さもしいのう!まさに未熟児の心情じゃ。低レベルじゃ。マニュフエスト遂行よりも、おのれ個人の権威維持を優先する、とんでもないエゴイストじゃ。政治家にあるまじきエゴイストじゃ。こんなもん、ほんまの実力者じゃないぞ。 ②亀井。参議院の議員数のこともあり、民主党は三党連立せざるを得ん。それを見越して居るのかい?〈わしゃ、じゃんじゃん言いまくって、目立ちたい。民主党政府にかかる迷惑なんか気にせんぞ。わし自身の選挙のためにも目立つことが肝心じゃ〉ちゅうことじゃな。レベル低いぞ。〈10歳児でも、あんたより常識があるぞ〉と言いたい。・・政界ちゅうところは、ホンマに異常社会じゃのう。〔子供大人〕が威張っておるんじゃから!こんな政治家たちに政治任しておる我々は、ホンマにおかしいぞ。次の選挙、要注意じゃ。要注意じゃぞ」 

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2009年10月30日 (金)

近現代史5、日中戦争(昭和12年)

1、三郎「昭和7年に満州国が建国された。勿論これは日本の傀儡(カイライ)国家じゃ。傀儡とは〔あやつり人形〕じゃ。傀儡国家とは、〔一見独立国だが、実は日本が思い通りに扱える国〕ということじゃ。昭和8年8月の閣議で決定した『満州国指導方針要領』の『満州国に対する指導は、規制における関東軍司令官兼在満帝国大使の内面的統轄の下に、主として日系官吏を通じて実質的に之を行わしむるものとす』がそれを示しておる。明治43年に併合されて日本の一部となった朝鮮に接している満州国は、日本にとって、まさに山県有朋のいう利益線じゃ」

2、六郎「利益線は、だんだん広がる?」 三郎「そうじゃ、そうじゃ。朝鮮は最初の利益線じゃったが、それが併合されて日本国になると、利益線が更に満州に広がり、更にその西の蒙古にも・・・、ということになるんじゃ。この頃(昭和7年8月)に石原参謀は関東軍から出て兵器本廠付になるんじゃが、それ以来、むしろ日本軍の拡大意欲はより強くなっていったぞ。先ず、昭和9年頃からの〔華北分離工作〕じゃ。華北地方ちゅうのは、中国領の河北省・チャハル省・山東省・スイエン省・山西省のことじゃ。満州の西南側(万里の長城のすぐ南側)地域のことじゃ。北京とか天津は河北省にあるぞ。その華北地域に日本の支配力を及ぼそうというのが所謂〔華北分離工作〕じゃ。それを、日本の支那駐屯軍と関東軍とが、互いに協力するような、競うような・・そんな形でやったんじゃな」

3、三郎「その頃の中国では、蒋介石がもっとも勢力を持っていたが。まだまだ、各地に将軍が割拠していた。それに対して関東軍・支那駐屯軍が、口実(天津日本租界で親日系中国人新聞社社長が暗殺された・・非武装地帯を足場に満州国内へゲリラ攻撃がなされた・・等々)を作っては、武力で圧力をかけたうえで、昭和9年6月10日の梅津・何応欽協定や6月27日の土肥原・秦徳純協定などを結んだ。それらによって、河北省から中国国民政府直属の政治的・軍事的機関が河北省から撤退させられ、チャハル省から国民政府機関や中国軍が撤退させられた。8月6日、日本の軍中央は『河北・山東・山西・チャハル・スイエンの河北五省を、南京政権の政令によって左右されず、自治的色彩濃厚なる親日・親満州地帯たらしむることを期す』と関東軍・支那駐屯軍に指示した。これこそ〔華北分離工作〕なんじゃ。満州を抑えたから、次は、その西南方の中国北部地区を支配下に入れようという訳じゃな」

4、六郎「華北分離工作の目的は?」 三郎「まずはソ連対策じゃな。五カ年計画やって軍備を増強しつつあるソ連は、日本陸軍最大の敵じゃから。北のソ連に対しては。満州だけではなく、更に西の華北地区でも守りを固めねばならん、ちゅう訳じゃ。それと中国共産党そのほか、中国側からの反満抗日攻勢に対抗するためにも、華北を抑えておきたかったんじゃ。更に、第一次世界大戦以降兵器が進歩して戦争が大規模化し、軍隊の強弱だけではなく、国の経済力・生産力などの総力で戦うことになった。所謂国家総力戦体制が必要になってきたんじゃ。そこで、戦略物資獲得の為には満州の地下資源だけでは不足で、華北の鉄・石炭・棉花などが欲しくなったんじゃな」

5、三郎「こういう強引な工作をやると、当然、中国人たちの反日行動は激しくなるもんじゃ。よく、この段階からだけを取り上げて、〔中国側の反日ボイコットなどがあったから、日本は居留民保護などのために兵力を送り込んだ〕という御仁もおるぞ。あの〔満州事変は中国人たちの満州国独立運動を手助けしたんだ〕という説明をする渡部名誉教授たちと同類じゃ。ものは言い様じゃが、歴史は因果関係をしっかり見んといかんぞ。華北分離工作は、例えば、昭和10年8月1日の中国共産党の〔抗日八一宣言〕を生み、中国学生を〔抗日一二九運動〕に駆り立てた。この頃、蒋介石が張学良の督促の為に西安に行ったら、張学良に監禁・説得されて、〔共産軍をも含めた一致抗日をする〕の合意をさせられた。中国は〔内戦を停止して、一致して日本に対抗する〕ということになったんじゃ。これを〔西安事件〕と言うぞ。これによって中国国民党(蒋介石ら)や中国共産党が昭和2年以来の内戦を停止し、所謂〔国共合作〕をしたんじゃ。中国側の対日強硬姿勢が顕著になった。日本にとっては、由々しき事態じゃな。昭和10年12月のことじゃ」

6、三郎「石原莞爾(参謀本部作戦課長、昭和12年5月から第一部長)は、もともと〔対ソ戦重視派〕であったが、それ故にこそ、むしろ、〔華北分離工作に、あまり勢力を注ぎ過ぎてはいかん〕という判断をしていた。が、日本の政治情勢の不安定や、陸軍内部の意見の分裂などもあって、華北分離工作の修正もままならず、依然として、日中間は危機をはらんでいた。・・・そんな昭和12年7月7日夜、河北省北平(ペーピン)郊外の廬溝橋(ロコウキョウ)付近で日本の支那駐屯軍が夜間演習を行っていた。そこへ中国軍の方角から数発の銃弾が飛来して頭上を通過した。誰が発砲したか未だに不明じゃ」 

7、三郎「発砲はあったが、日本軍も、いっとき、何とか平和に治めようとしたんじゃ。そんな中で、支那駐屯軍第一旅団第一連隊の連隊長牟田口廉也(ムタグチレンヤ)大佐が中国軍攻撃を命じたんじゃ。これが日中戦争の開始じゃ。この後の8年にわたる戦争の発端じゃ。まさに歴史の転換点じゃ。ことは重大じゃ・・・・、ところでその牟田口連隊長は、7年後、第15軍司令官として、昭和19年3月に、無謀きわまるインパール戦を開始して、インパール街道を、敗走する日本兵の死体の山にしたんじゃ・・インパール作戦では、戦死30、500人、傷病42、000人とされておるぞ。言いにくいことじゃが、〔前途ある若者たちの、まったく無駄な死傷〕じゃ。指揮官牟田口の責任は極めて重大じゃ。幼年学校に始まる陸軍将校養成学校には、こういう生徒がたくさんおったぞ。〔名誉・権威だけの人命軽視人間〕じゃな。要は超エゴ人間じゃ。軍幹部の教育は極めて重要だぞ。日中戦争・太平洋戦争の経験が、自衛隊幹部の教育などに生かされておるんかのう??おそらく忘れられておるじゃろうのう?〔歴史は学ばれずして、愚が繰り返される〕んじゃ」

8、三郎「日中戦争開始時の暴走者は、勿論、牟田口連隊長だけじゃないぞ。近衛文麿首相は、7月10日の〔関東軍2個師団・朝鮮軍1個師団・内地3個師団の華北派遣〕という陸軍の提案を翌11日に承認し、葉山に避暑中の天皇の許可を得るべく駆けつけたんじゃ。かくして、軍中央から停戦交渉中だった支那駐屯軍に対して、〔中国側にとって過酷な条件を提示するように〕という指示が飛んだ。・・ここで脱線するが・・昭和12年1月1日付の『東京朝日新聞』に近衛首相がこんな文を寄せておったそうじゃ。『中国が自ら開発の力がおよばざる天賦の資源を放置して顧みないというのは、天に対する冒涜ともいい得るが、日本は友誼の発露として開発をなさんとするものである』・・・わしゃ、〔ホンマかいな?〕と言いたいぞ」 六郎「ホントにホントですか?」 三郎「記録にあるんじゃから、ホンマじゃろうのう。こういう気持で政治やれば、廬溝橋事件直後の首相の行動になるのは当然じゃな。参謀本部第一(作戦)部長で、当初不拡大派だった石原莞爾少将も、7月26日の支那駐屯軍司令官香月中将からの〔兵力行使申請〕に対して、『徹底的に膺懲せらるべし』と返電したそうじゃ。こりゃあ、まさに、〔雰囲気開戦〕じゃな」

9、三郎「かくして、昭和20年8月までの8年間続く日中戦争が始まったんじゃ。日本軍は、南京や漢口を占領して意気軒昂だったが、中国軍は重慶という奥地に下がって頑強に抵抗した。日本は戦争を終わらせることができないまま、中国を応援していた英米との戦争に追い込まれたんじゃ。日中戦争→太平洋戦争は必至じゃった。・・日中戦争の日本軍死者は40万人。傷病者はその数倍じゃな。若者から中年までの死傷者じゃ。あの作家・井上靖さんも昭和12年8月25日に、30歳で召集令状をもらい、2等兵扱いの特務兵(最低クラス)で北京郊外を250キロ行軍したそうじゃ。彼の手記には、『話は招集解除の話ばかり。神様!一日も早く帰してください』とあるぞ。余程つらかったったんじゃなー」

10、三郎「満州事変から太平洋戦争までの日本人の死者は310万人(傷病者は2000万人前後?)。内、本土空襲による一般国民の死者30万人(被災家屋250万戸?)と言われておるが、その中央部分に日中戦争があった。当時の日本のトップは、近衛・東条など無責任・無経綸人間だったし、軍幹部には牟田口的人間が多かった。天皇も時に好判断したが国を動かせなかった。まったく、取り返しのつかない大悲劇じゃ。なお、この間の中国人の死者は1000万人ないし2000万人と言われておるようだ。〔白髪三千丈〕の国の発表じゃから、いささか誇張はあるにしても、膨大な人命が失われたことには違いあるまい」 

11、三郎「最後に、『加藤陽子著・それでも日本人は戦争を選んだ』から、当時の中国指導部の二人の人物について付け加えておくぞ。故適(コテキ)と、汪兆銘(オウチョウメイ)じゃ。先ず故適。北京大学教授(社会思想)で、蒋介石に抜擢され、昭和13年には駐米大使になった。彼は日中戦争勃発の2年前(昭和10年)に『日本切腹、中国介錯論』を唱えている。それは次の通りじゃ。『①中国は、日本に対抗するために、海軍力のアメリカと陸軍力のソ連の力を借りねばならぬ。日本はこの2国の軍備が整わぬうちに、中国にダメージを与えにくるであろう(事実、昭和6年満州事変、昭和12年日中戦争、昭和16年日米戦争。昭和20年日ソ戦争)。②アメリカ・ソ連を日中戦争に引き込む為には、中国が戦争を正面から引き受けて、2~3年間負け続けることだ。満州に駐在した日本軍が西方や南方に移動しなければならなくなると、ソ連はつけ込む機会が来たと判断する。世界中が中国に同情する。英米および香港、フイリピンが切迫した脅威を感じ、極東における居留民と利益を守ろうと、英米は軍艦を派遣せざるをえなくなる。太平洋の海戦がそれによって迫ってくる。・・日本の武士は切腹を自殺の方法とするが、その実行には介錯人が必要である。今日、日本は全民族切腹の道を歩いている。上記の戦略は〔日本切腹、中国介錯〕というこの八文字にまとめられよう』・・・・汪兆銘は、蒋介石を裏切り、昭和13年末にハノイに脱出して、南京に日本の傀儡政権を作った人間じゃ。当時から、わしゃ、その名前を聞いておった。〔日本の味方じゃ〕と思うちょった。・・・彼は、昭和10年に胡適と論争したんだ。・・『胡適の言うことはよくわかるが、3~4年にわたる激しい戦争を日本とやっている間に、中国はソビエト化してしまうぞ』ちゅうたんじゃな。つまり、汪兆銘は〔中国がソビエト化(共産化)するのを防ぐために、日本と妥協する道を選んだんだ〕ということだな。彼が非難されたときに、彼の夫人は『蒋介石は英米を選んだ。毛沢東はソ連を選んだ。自分の夫は日本を選んだ。そこにどんな違いがあるのか』と反論したそうじゃぞ。なかなか凄い奥さんじゃな!・・ともあれ、中国は共産国になり、現在もそうなんだから、・・〔汪兆銘の予言は的中した〕、ということは間違いないな・・」

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2009年10月27日 (火)

小沢=子供、エエ加減にせんかい!

三郎「民主党で、新人14人が政府の仕事に参加したのに、小沢氏が文句つけて中止させておるそうじゃな」 六郎「又か!、という感じですね。政府側からの連絡に不備があったのかもしれないが、作業が急がれる中でのガタガタ・・、〈又小沢が?!〉という感じですね。発言に重みがあって、みんなから重んじられるのは、確かに小沢の能力でしょうが、小沢本人が〔何時までも存在を示すためにそれを続けたい〕と思ってごね続ける。〔たとえ、それが党・政府・政治にマイナスになっても平気〕ということですね。傲慢というより、救いがたいダダッ子ぶりですね。。本当に子供じみていますね。70何歳にもなって。実にみっともない。こんな子供じみた人間に誰も頭が上がらない?小沢グループが多い?・・そんな民主党に・・、こりゃ、政権任せられませんね。《小沢=民主党の癌》ですね。《小沢氏、直ちに引退せよ》ですね」 三郎「全く同感じゃな。『党首(鳩山)が幹事長(小沢)を首にする』ちゅうこともあってエエんじゃないかい?鳩山株、あがるぜ!!。わしゃ、小沢宅に近いところに住んでおるが、彼の家の前通るたびに《エエ加減にせんかい!》ちゅうとるんじゃがのう・・・」

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2009年10月22日 (木)

わしを裁判員にせんかい!

1、三郎「テレビ(テレ朝?)で見たが、あの冤罪事件について、テレビ局の女性が裁判官に質問しておった。裁判官は車の運転席で車を出そうとしていたが、何とか応じておった。応じたのは珍しい。・・よろしい。・・じゃがな、その言葉には驚いた。冤罪者を出したことに何の反省もない。〔わしゃ、法廷で出された事実だけから判断したんじゃ。間違うておらん〕とな。たしか、弁護側から〔新DNA検査を法廷で取り上げろ〕という要求が出されたはずじゃ。それを長い間取り上げんかった。裁判官には〔真実を追究しよう〕ちゅう熱意ないんかい?ホンでもって、〔法廷に出た事実から判断したんじゃから間違うておらん〕じゃと?質問した女性の言葉が論理的でなかったせいもあるが、ともかく、裁判官の返事は、逃げ、逃げ、じゃった。情けないのう!ふざけるな!」

2、六郎「裁判官も月並み人間ですね。〈エゴ・自己弁護だけ〉の普通人間ですね。私は、〈裁判官というのは、正義を求める、真実に迫る、優れた人たち〉と思っていましたが全然違いますね。ガッカリ、ガッカリです」 三郎「じゃから、〈わしを裁判員にせい〉ちゅうとるんじゃ。裁判官に喝入れてやりたいんじゃ」 六郎「冗談はさておいて、裁判官のレベル、絶対に上げてもらわないといけませんね。エゴエゴ社会の中の最後の砦が、裁判所ですからね!!」

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2009年10月19日 (月)

近現代史4、満州事変(昭和6年)

1、三郎「今日は『近現代史4、満州事変(昭和6年)』の話をするぞ。ここでも前座の話が二つあるぞ。①関東軍とは?②張作霖爆殺とは?の二つじゃ。・・・まず関東軍。これはかつての日本陸軍の一部だ。明治38年に、日露戦争に勝って、日本はロシアから関東州と呼ぶ租借地(3462平方キロ、中国領満州の遼東半島の先の方。旅順・大連などの都市がある)と満鉄付属地、(430キロ余の満鉄と言われる鉄道線と、その線路の両側の土地)を手に入れた。今までロシアが清国(中国)から得ていた租借地と鉄道線を日本に譲ったわけじゃ(中国政府は有無を言わさず承知させられた)。これらは、日本の領地みたいなものだから、それを守る軍隊が必要だ。いわば関東州駐屯部隊だ。これが大正8年の機構改正で関東軍という名前になったんだ。任務はやはり関東州および満鉄の防衛だ。前に話した大正4年の21カ条要求で、関東州らの租借期間は大幅に延長されておったんじゃ」

2、三郎「次は張作霖(チョウサクリン)爆殺事件じゃ。張作霖ちゅうのは、もともと馬賊の親分で、大正から昭和のはじめ頃にかけて、中国の中の満州の部分(万里の長城以北、東部)を支配しておった。万里の長城以南の中国は蒋介石などが支配していた。なお、中国では、清朝が倒れて大正元年に中華民国になっていたが、その中国には、明治33年の北津事変の時に在留邦人保護の名目で天津付近に入った支那駐屯軍とか、さっき言った関東軍とかの日本軍がずっと駐屯しておったんだ。つまり、その頃の中国には、張作霖とか蒋介石とか孫文とか、中国人親分たちの勢力が割拠していたが、そのほかに、日本軍その他の先進国軍が居留民保護などの名目で駐留して、それぞれの権益を守っておったんじゃ。ややこしい話じゃ」

3、三郎「日露戦争当時、<張作霖はロシア軍と通じた>とされて日本軍に捕らえられたんだが、当時の満州軍総司令部の作戦参謀田中義一に命を救われた。それから日本軍に協力するようになった。やがて、張作霖は満州全体を支配するようになり、首相になった田中儀一は、<張作霖を利用して、日本の権益を安定させ拡大するのが得策だ>と考えておったようじゃ。それに対して、陸軍や外務省は、張作霖を邪魔にし、<あいつを除いて満州を支配すべきだ>と考えておったようじゃ。外務省で言えばあの奉天総領事・吉田茂じゃ。麻生前首相の祖父じゃ。吉田は昭和2年6月10日に『張作霖にとって最も重要な奉天工廠を占領するか、山海関・渄南・吉林など鉄道主要地点を日本側は占領すべきだ』と具申しておるぞ。吉田茂は陸軍ばりの強硬外交官じゃのう」

4、三郎「昭和3年6月3日のことじゃが、関東軍参謀の河本大作が、北京で戦いに負けて満州の奉天に帰ってくる張作霖を、橋の上で列車ごと爆破して殺したんじゃ。これが所謂張作霖爆殺事件じゃな。河本は、<張作霖が殺されてごたごたが起きるのをきっかけにして、関東軍が満州を占領すればいい>と思うたんじゃな。河本大作参謀は、張作霖爆殺を、国民党・・蒋介石らの党・・の工作人の仕業に見せようとした。偽装工作じゃな。中国人のアヘン中毒患者ら3人捕まえて、殺して爆発現場付近に死体を置こうとしたんじゃ。ところが1名は逃げて、事もあろうに、張作霖の息子の張学良の所に駆け込んで<かくかくしかじか>と注進したらしいぞ。それに、爆殺に使った爆薬が橋脚にくっついておったんじゃが、それは日本軍独特の高給黄色火薬だった。犯人に仕立てた二人の死体は見るからにアヘン患者。彼らの懐にあった暗殺趣意書は日本式漢文。爆薬と爆破スイッチを結ぶ電線が少し離れた日本軍監視所に引き込まれていた」 六郎「なんと、お粗末!・・・・・ですが、犯人が日本軍でないとなっていたら、張作霖配下の奉天軍と日本軍の戦いのきっかけにはならないんじゃないですか?」

5、三郎「エエこと言うぞ。じゃがな、<爆殺現場は満鉄線上だから、日本の租借地内だ。張作霖親分がそこで爆殺されたら配下の奉天軍が現地に入って来るだろうが。そうしたら、主権侵害を口実に奉天軍を攻撃できる>と考えたんじゃないかい?ともあれ、犯人誤魔化し工作もエエ加減だったんじゃのう!ところが、奉天軍指揮官が慎重派で、満鉄線に入ってこんかったから戦闘にならんかった。。一方、奉天軍来襲に備えて待機させていた日本軍兵力も、河本から計画を聞かされてなかった参謀が解散させておった、そうじゃ」 六郎「なんとも、なんとも、エエ加減な話ばかり!!。・・・それが帝国軍人のやることですか?」

6、三郎「結果は爆殺だけで終わったんじゃが、犯人が河本大佐(実行は東宮鉄男大尉ら)であることは明々白々だな。息子の張学良は、親父の跡を継いで満州の親分(保安司令)になると同時に、蒋介石(国民政府)と仲良くすることにしたんじゃ」 六郎「ほう、関東軍は、爆殺をきっかけにして、満州を取ろうとしていたのに、満州が中国本土側についてしまった!・・河本の大失敗ですね」 三郎「そうじゃ。だが、<河本関東軍参謀が張作霖を殺した>ということは、こりゃあ、大問題だぞ。・・勿論、河本・東宮だけでなく、関東軍も陸軍中央も、すべて、河本犯人説を否定した。陸軍出身の田中義一首相は困り果てた。事件から半年もたって12月24日に、ようやく天皇に会いに行き『これは世界的にも大問題です。・・もしも、陸軍の手がのびていたのであれば、厳罰に処します』と言うたんじゃ。天皇は『よろしい。しっかりやれ』と」

7、六郎「関東軍幹部や陸軍中央の関与は?」 三郎「事前からあったんじゃないかい?・・半藤一利さんは書いておる。『当時の白川義則陸軍大臣が用意した3000円が、河本を経て、この事件にかかわった日本人に渡った』とな。・・・それから、『昭和4年5月6日、ほぼ事件1年後になって、田中首相は天皇に<陸軍とは関係ありませんでした>と。天皇は<前と話が違う。辞表を出してはどうか>と。・・・7月2日、田中内閣総辞職。直後に田中死亡。自決説も・・・』と書いておるぞ。・・・・・さて、前座の張作霖爆殺事件の話が長過ぎたのう。最後に『大江志乃夫著・張作霖爆殺』から三つだけ引用して終わる事にするぞ。①『昭和5年10月1日、予備役編入(退職)になった河本を招いて、赤坂で、盛大な慰労宴があった。出席は二宮参謀本部総務部長・畑同第一部長・建川同第二部長・小磯陸軍省軍務局長・永田同軍事課長・梅津歩兵第一旅団長・東条歩兵第一連隊長・・・・・』②『張作霖爆殺事件の処理をあやまった結果として生じたもうひとつの致命的な弊害は、出先軍の専恣(センシ・わがまま)をゆるす結果になったことである』③『天皇が張作霖爆殺事件の処理にあたってゆるめた統帥権の手綱が軍部という暴れ馬の暴走をゆるし、この暴れ馬はみずから暴走する力がつきて倒れるまで、とどまるすべを知らなくなった。・・このあばれ馬のひづめにかかって多くの国民、さらに多くのアジアの民衆が犠牲となったのである』」

8、三郎「この『大江志乃夫著・張作霖爆殺』からの引用の③の<暴れ馬の暴走>とは、勿論、張作霖爆殺事件(昭和3年)だけではなくて、3年後の満州事変(昭和6年)、9年後の日中戦争(昭和12年)、13年後の太平洋戦争(昭和16年)を経て、17年後の敗戦(昭和20年)までのことである。・・・・・なお、その後についても『昭和20年以降、国民の低い政治意識が、自民党族議員という暴れ馬の暴走を許し、60余年にわたる暴走のひづめにかかって、国民の福祉が犠牲となったのである』と言いかえることが出来るんじゃぞ。戦後・・先日の政権交代まで・・戦争こそなかったが、自民党族議員らの私利私欲・政官業癒着は、膨大な税金の不正使用を行い、850兆円余に及ぶ国の借金まで残しておる。その累は子々孫々にまで及ぶんじゃぞ」

9、三郎「やっと、これから、満州事変の話に入るぞ。・・・張作霖爆殺から3年後の昭和6年9月18日に始まった戦闘・・・。これを、満州事変と言うのじゃ。午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)駅付近で南満州鉄道が爆破され(命令を受けた関東軍の今田新太郎らが隠密塵に爆破した。柳条湖事件という)、これをきっかけにして関東軍が軍事行動を開始し、満蒙一帯、すなわち満州(中国東北地方)や内蒙古東部の武力制圧に乗り出して制圧してしもうたんじゃ。日本の傀儡国家である満州国が生まれたのは、事変勃発から6ヶ月後にも満たない翌昭和7年3月1日なんだ。3年前の張作霖爆殺と比べて、極めて計画的に緻密にやったんじゃな」

10、三郎「関東軍兵力は1万人そこそこ(1万400人とか言われたが)だったから、関東軍の板垣・石原参謀らは緻密に計画し独断で事を進めた。①当時中国は首都南京で国民党政府主席・行政院長・蒋介石が勢力をふるっていたが、満州は当然中国の一部とされ、実質的にその満州を支配していた張学良は、蒋介石と良好な関係を保っていた。満州事変勃発時、蒋介石は30万の兵力を率いて、江西省の南昌(中国南部)で共産軍(紅軍)と戦っていた。南京にはいなかった。石原は知っていたはずじゃ。②満州を支配していた張学良も、9月18日の夜は、11万の兵を率いて、万里の長城を越えた華北の北平(北京)にいた。日本の特務機関が、張学良に対する反乱を華北で起こさせて、張学良を引きつけた」

11、三郎「③事件発生時、関東軍司令官本庄繁は奉天を離れて旅順にいた。鉄道爆破が行われるや、板垣は連隊長らに『張学良軍の攻撃である。奉天城・北大営を攻撃せよ』と命令した。・・・これは勿論統帥権干犯(陸軍刑法では死刑に値する)。④石原参謀と朝鮮軍作戦参謀神田正種少佐との間では事前連絡ができていた。関東軍の20倍の張学良軍(奉天軍あるいは東北軍)に対抗するには朝鮮軍の応援が必要であった。日本主権下の朝鮮軍が朝鮮・満州国境(鴨緑江)を越えて中国主権下の満州に入るには、当然、天皇の命令(奉勅命令)が必要であるが、林銑十郎朝鮮軍司令官は、それを待たずに、独断で朝鮮軍を、21日に、越境させた。先の板垣参謀も林司令官も、罪に問われなかったぞ。張作霖爆殺以来、軍の規律は一段と緩んでおった」

12、三郎「話し始めたらきりないなー。あと一つだけ、石原らの周到な準備の実例を話すぞ。⑤張学良の奉天城を攻撃するためには大きな大砲が必要であった。関東軍は24サンチ榴弾砲2門を内地から運ばせていた。客船を使って神戸から船に乗せ、大連で陸揚げするときは、兵隊たちが支那服を着て作業した。砲身を箱で覆って、<さる高官の棺だ>、と偽ったそうじゃ。事変が起こり、関東軍は北大営攻撃などに、この巨砲を大いに活用したそうじゃ」

13、三郎「日本軍は、張学良軍を撃破して、満州の北の方まで進み、11月18日にチチハルを、翌昭和7年1月3日には、西の錦州を占領し、やがては、満州と中国本土の境界線で万里の長城の起点山海関まで進んでしもうた。昭和になる頃は、世界の帝国主義に反省が出てきて、昭和3年には各国で不戦条約というものも結ばれていた。日本の満州進出は自衛とは認められない、不戦条約違反だ、という強硬意見が各国の間に強くなった。アメリカも然りじゃ。板垣・石原らは、<支那人たちが独立を図っている。日本はそれを手助けするだけだ>というジェスチャーを見せた。と同時に世界の目を別な所に向けさせるために、田中隆吉中佐をして、上海で事件を起こさせた。日蓮宗のお坊さんと信徒が南無妙法蓮華経と唱えながら托鉢しているのを中国人に襲わせて、2人が死に3人が重傷を負った。上海事変じゃ」

14、三郎「日本は上海派遣軍を送って中国軍を破り、これまた<南京まで、行け行け>という雰囲気であったが、ようやく白川義則司令官がストップをかけたんじゃ。昭和7年4月29日、天長節の日に調印式が行われた。この上海事変の一般被害は、死傷者約4万人、家屋全半壊16万個に及んだというぞ。当事者たちにとっては、何とも痛ましい戦いじゃ。世界の目をそらせる、たったそれだけのために、この被害じゃ」

15、三郎「ところで満州では、関東軍が、奉天省・吉林省・黒竜江省という満州地域を形成する3省の首席を集めて、彼らが自主的に建国を決めたような体裁をとらせた。これが昭和7年2月19日の満州国建国宣言じゃ。そして3月1日の中国本土からの独立宣言じゃ。・・・蒋介石が国際連盟に提訴したから、満州問題は国際連盟で討議され、リットン調査団と言うのが調査に来た。その報告は必ずしも日本を悪とばかりは言うていない。不戦条約違反などとは書いていない。ただ、①9月18日(満州事変勃発・柳条湖事件)の行為は、合法的な自衛の措置とは認められない②満州国は日本の関東軍の力を背景に生み出された国である。③日本は満州が中国の主権下にあることを認めるべきである。と書いてあった。国際連盟では、<日本は11月16日までに、いったん満州国から手を引いいたほうがよい>と言うたんじゃな」

16、三郎「そうして、昭和8年2月24日の国際連盟総会で、日本軍の満州撤退勧告が42対1(日本)で採決された。そこで、日本の松岡全権は国際連盟脱退を宣言し、最後に<さよなら>と言うて席を立ったんじゃ。日本は世界の孤児になったわけじゃな。このことは、その後の日本・・日本人・・東洋各国人・・世界各国人・・の運命に大きくかかわっておるぞ。半藤一利氏は国際連盟脱退後のことを『〈勇んで栄光ある孤立を選んだ〉などという言葉でもって、日本国民は〈今や日本は国際的な被害者であるのにさながら加害者のごとく非難されている〉と信じ、ますます鬱屈した孤立感と同時に〈コンチキショウ〉という排外的な思いを強め、世界中を敵視する気持ちになりはじめる。排外主義的な攘夷思想に後押しされた国民的熱狂がはじまりました』と書いている」

17、三郎「最後に、〈日本はなぜ満州事変を起こしたか〉に触れておくぞ。明治以来、日本は日清戦争に勝って、国家予算の3倍の賠償金や台湾を手に入れた。日露戦争に勝って関東州(旅順・大連等)と満鉄を得、5年後に韓国を併合した。第一次世界大戦では山東半島の旧ドイツ権益や赤道以北の旧ドイツ領南洋群島を手に入れた。日露戦争後、日本とロシアは〈南満州・内蒙古東部は日本の、その先はロシアの〉というように、他国の領土に、勝手に勢力範囲を決めたんじゃ。山県有朋式の利益線の拡大じゃな。なお、具体的な一例を言えば、たとえば満鉄(南満州鉄道)では、運輸業のほかに鉱業・・特に撫順・煙台の炭鉱採掘・・、水運業・電気業・倉庫業・鉄道付属値の土地・家屋の経営などなど、・・様々な権益があったんじゃ。・・・やがて昭和になった」

18、三郎「加藤陽子氏の本には『昭和6年7月、〈満蒙のための武力行使は正当か〉という問いに対して東京帝大生の88%が〈然り〉と答えた』とある。その頃、前に言うた〈鬱屈した孤立感〉や〈軍国主義的思想〉が、軍そのほかによって唱えられていたのじゃのう。日本は戦争によって満州の地を手に入れていたが、例えば、〈満鉄に平行する鉄道は作らない、という日中の約束を、中国は守らない〉などなど、日本の権利が侵されている、という宣伝もなされておった。国民一般の意識は、先の東大生のそれに近かったんじゃな」

19、三郎「一方、軍には、関東軍石原参謀の最終戦論に発する思想が根底にあった。これが満州事変への原動力だったんだ。石原の考えをごく単純に言えば次のようになる。『数十年の後には、日本とアメリカを中心とする二大勢力が人類最後の大戦争を戦うことになる。日本はその準備を急がねばならぬ』と。・・・石原によれば、満州事変は最終戦争のための第一歩になるんじゃ。対米戦争にも持久できるような資源獲得基地としての満蒙領有論なんじゃ。・・それも、『革命(ロシア革命・大正6年)によって生まれたソ連が、第一次5カ年計画(昭和3年10月開始)で軍事力を充実する前に、日本は満蒙領有を急がねばならぬのだ』という考えだったんじゃ」

20、三郎「大変長くなった。疲れてきたぞ」 六郎「満州事変がなぜ起こったか・・・がよくわかりました」 三郎「最後に、その満州事変頃から、小国主義論者石橋湛山などは『満蒙放棄論』を唱えておったぞ。例えば『さればもし我が国にして支那またはシベリアを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出ずるならば、戦争は絶対に起こらない、したがって我が国が他国から犯さるるということも決してない』とな。『半藤一利著・戦う石橋湛山』には『昭和10年代の対英米戦争への道は、そして結果としての旧植民地各国の独立による戦後の世界の成立は、まさしく湛山が予言するとおりになったのである』とあるが、満州放棄論の頃の湛山の説もまた、『今にして思えば、そうであった』と思わせるものなんじゃ。・・・最後に一つ、おかしなものを付け加えておくぞ。『渡部昇一著。昭和史』225頁じゃ。『満州国は、溥儀の熱烈なる希望にしたがって建国された国です。・・・大枠からいえば日本は、溥儀が父祖の地・満州に、満州国を建てて皇帝になろうとするのを邪魔だてする勢力を退けただけのことです』とあるぞ。・・・・・こりゃあ、満州事変当時に、関東軍が〈世界に対する誤魔化し・言い訳〉として言うたことなんじゃ。まったくその通りじゃ。・・・一体、これなんじゃい?・・平成の今、上智大学名誉教授の渡部さんが、〈80年前に関東軍がやった誤魔化し説明の中身〉を、そのまま、〈これが事実です〉と言うておるんじゃ。関東軍参謀が80年タイムスリップして、名誉教授になったんかい?・・・・・びっくりしたな、もう!!」  

21、六郎「満州事変は、溥儀に協力しただけですって?・・国際連盟で〔日本軍は満州から手を引きなさい〕といわれて日本は連盟を脱退したんですよね?溥儀に協力しただけなら、もう満州国ができたんだから日本軍は引いたっていいはずですよね。だのに連盟脱退し、〔満州から撤退なんかするもんか〕という態度を示した。こりゃあ、矛盾ですよね。満州領有論(満州国傀儡化)は間違いない事実だと考えるしかありませんね」 三郎「ええ事言うぞ。その通りじゃ。話をはしょってきたから、ここで、少し詳しく付け加えるぞ。本からも引用して〈満州事変は溥儀に協力しただけ〉という妄言を粉砕しておくかのう!」

22、三郎「『野島博之著・謎とき近現代史』では『①関東軍の当面の敵ソ連は、昭和6年頃は経済政策で餓死者が出るほどだった。軍の整備もまだだ(前に話したな)今が、満州占領の好機②中国では蒋介石の北伐が成功して、統一ができかかっていた。満州を押さえている張学良も蒋介石と合体している。統一中国は各国の中国内の租借地変換などに出てくるはず。今の内に満州全土を抑えよう③昭和初期は昭和恐慌の時期だ。欠食児童や娘の身売りの頃だ。日本の独占的な資源供給地兼市場として満州が欲しい。人口問題もあった。アメリカは大正13年に排日移民法を成立させた。新たな移民先・食糧増産地として満州が欲しい④世界恐慌によってアメリカの立場が弱まり、関東軍の行動に干渉してくる可能性が減っている。⑤これらの背後に石原菅爾の言う〈アメリカとの世界最終戦に備えた資源・持久基地としての満蒙確保〉がある」

23、三郎「『渡辺龍策著・馬賊』から。『関東軍はすでに南満州を占領していた。いまや、かねての計画通り、天津に居住していた溥儀をひき出してこれを満州皇帝とする工作に着手しなければならない。溥儀は、はじめは、この工作をなかなか承諾しなかった。そこで、関東軍は、天津一帯の治安を謀略的に攪乱したり、爆弾入りの贈物をしたりして、溥儀とその周囲のひとびとに身辺の危険を感ぜしめた』・・『佐野真一著・甘粕正彦・乱心の礦野』から。『溥儀連行に直接関わった甘粕(正彦)本人は、・・温泉についてから溥儀に次のような条件を提示したことを物語っている。〈ホテルで、余は四カ条の誓約を皇帝に示した。1、自分勝手に通信しないこと、 2、政治に干渉しないこと 等であり、若し、これに違えば、即刻天津へ送り還すというものであった〉 ここでも甘粕は有無をいわせぬ強硬派ぶりを見せつけている』『昭和4年の秋の渡満から昭和6年9月の満州事変、これに続く同年11月の護衛という名を借りた溥儀の拉致連行までの謀略活動期の甘粕からは、出獄後悶々とする甘粕や、陰惨な滞仏生活は到底想像できない』・・甘粕は大正12年に、大杉栄ら3人を絞殺して一時入獄したんじゃ」

      

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2009年10月15日 (木)

東京都、知事そのままの傲慢さ

1、三郎「駒沢公園テニスコートの使用可非・・パソコン調べ・・。今朝8時現在、『8時半プレイ不可。10時半以降不明。90分前に決定』9時現在『10時半プレイ不可。12時半以降不明。90分前に決定』・・・こんなことがしょっちゅうだ。昨日の雨の影響だ。コートは45年間クレー(土)だし、駒沢はクレーの中でも特に悪い。こんなパソコン掲示の変遷で、都民は長年不便を強いられている。<今日テニス出来るかどうか?>が、時を経ないと不明。テニスはチームプレイだ。<一人で勝手に決める事>が出来ない。テニスあきらめて出かけることもできない。・・・こんな不便を45年間都民に強いて、公園関係者は平気。まさに、<オリンピックには150億円公金使うが、都民のことは無視、無視>という知事の特性が下までしみ込んでおる」

2、六郎「今頃クレーコートは珍しいですね。あちこち・・例えば区営テニスコートなども・・次々人工芝(オムニ)に変えているのに。駒沢公園(都営)は45年間?その利用者の<オムニにして>という希望が極めて多いというのに!・・・まさに都民無視・都民蔑視。なるほど知事の性格そのままですね」

3、三郎「壁打ちの件、話すぞ。公園職員のさる女性の言葉。『壁打ちのボールがネットを越えて競技場に飛び込み、弓大会を妨げた。壁打ちはやめさせたいんです』・・・ネットの高さは5メートルある。壁打ちの球がそれを越える確率は5万分の1位じゃ。これがそんなに問題かい?要するに、職員は<ちょっとでも、何かあって、自分らの責任にされてはいやだ>ということじゃ。それも、責任と言えるような事件が起こる可能性は皆無じゃのに。・・只管事なかれ主義。無責任。庶民のこと無視、無視、無視・・なんじゃ。これも知事そのままじゃな」

4、六郎「それにしても45年間・・世間の趨勢なのに・・都民の要望も無視して・・クレーのままで、さっきのような不便をしばしば都民に強いているとは!?、驚きですね。如何に<役人が傲慢>という世の中であったとしても、そりゃあ、信じがたいことですね。・・・やはり、他では見られない傲慢知事の配下だから?」 

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2009年10月13日 (火)

動きでモノを言え

1、六郎「今朝バスに乗りました。最後尾の座席は4人・・つめれば5人・・座れますが、私は左側窓際に座りました。中央に、小肥りのおばさんが座り、右端窓際に男性が座って発車しました。やがて停留所。若い女性が乗り込んできて、おばさんの前に来て、ちょっと頭下げました。おばさんはやや私の方に寄って彼女はその右に座りました。次の停留所。小太りの若い女性が来て、おばさんの前に立ち、おばさんの顔見ました。おばさんはまた左に、つまり私にピッタリに寄り、小太り女性はその右に座りました。おばさんは、お尻を左に寄せながら<うん>と小さい声出しました」

2、三郎「おばさんの<うん>は、<この厚かましい小太り娘め>ちゅうこっちゃな」 六郎「そうです、そうです。最初の若い女性は、おばさんにちょと頭下げた。小太り娘は睨みつけた。・・・深沢不動の角のセブンイレブンに入って、品選びました。一番年配の店員おばさん・・ひょっとしたら経営者?・・が、私の腕に触るまで近づいてきて、サッササッサと、棚に商品並べました。この3人・・<バスの中の①若い娘と②小太り娘>と<③セブンイレブンの最年長おばさん>・・は、それぞれこう言っていました。『①すみません、座らせていただけますか?』『②早く席あけてよ』『③邪魔よ。さっさと品決めなさい』と。・・動きがモノ言いますね!・・私は思いました。『わしが若けりゃ、①とは付き合うが②となんか、トンデモナイぞ。③このセブンイレブンは、なるべく避けて、ほかのコンビニで物買いたいな』と」 三郎「<動きはモノ言う。・・だから動きでモノ言え>ちゅうこっちゃな!」

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2009年10月 7日 (水)

傲慢人=卑劣漢・・・なるほど、なるほど

1、三郎「『傲慢人=卑劣漢』・・・・・、これ、わしのテニス仲間が言うた言葉じゃ。相手のボールがこちらのコートのバックラインギリギリに着地した場合など、<アウト>と言うか、<セーフ>と言うか?・・これで、人間が分かるんじゃ。卑怯者か?、正義漢か?とな。その結果、<傲慢人=卑劣漢>、と言えるそうじゃ。・・・・・彼、よう見ておるぞ!彼によれば、<外面はともかくとして、・・腹の底が傲慢でエゴイストで、仲間を仲間と思うてないような人間・・ほど、プレイ中の相手のボールの着地点を・・たとえオンラインであっても・・アウトと言いたがる>そうじゃ。つまり、<一見有能多才に見えて当選して政治家(議員・知事など)になった人間の本性が、傲慢・エゴであればある程、その人間のやることは、卑怯極まりない>とも言えるんじゃのう!」

2、六郎「なるほど、なるほど。それで思い出したことがあります。今朝の朝日新聞記事です。先日のオリンピック開催地決定について『石原知事が<ブラジル大統領がアフリカIOC委員諸君に、かなり思い切った約束したようだ><サルコジ・フランス大統領が、フランスの戦闘機を買ってくれるならブラジルを支持する、と発言した><開催地選考に関しても目に見えない非常に政治的な動きがあります>などと発言した事について、ブラジルの招致委員会がIOCに正式抗議する』とありました。・・・石原さん証拠あげられますかい?<負けたおのれの言い訳に、いい加減な事言った>としたら、こりゃあ、救い難い卑劣漢ですね。勿論知事の地位にとどまるべきじゃないですね。それから、石原さんの<超傲慢・傲岸不遜・庶民蔑視ぶり>は歴然としていますからね。あなたのテニス仲間は、いいこと言いますねー!!」

3、六郎「国民が賛成しないオリンピック招致活動に血道をあげて、当然敗れたのに、うす汚い言い訳をする。これが東京都知事???・・・、ここまで来ないと<都民の人物眼ゼロ>が証明できなかった、とは、情ない話ですね。都民も猛反省すべきです。知事が、おのれの発言の根拠を証明できなくて、卑劣漢であることが明らかになるということは、すなわち、知事に選出した東京都民の低レベルを世界に示すことにまりますね。<卑劣漢の恥>はどうでもいいが、<東京都民の恥>まで世界にさらすとは?!汚い、汚い、何という卑劣漢!何という品性下劣ぶり!・・・・・招致活動で、今までに150億円無駄使いしたとか?失業・生活苦で自殺が多発する日本で・・・・・。招致出来ていたら、更に数千億の金が使われる筈だった。傲慢人(=卑劣漢)の行動の行き着くところ、実に恐ろしいですね。150億円あれば特別養護老人ホームでも託児所でも、数百軒造れるんじゃありませんか。これ、犯罪に準ずる行為ですね!」

4、六郎「もともと、政治家(国会議員にしても知事にしても)は、庶民のために働くべき人間ですね。傲慢人=卑劣漢がやるべき仕事じゃありません。・・ただの作家だったら、そりゃあ結構・・その作品を読むか読まないかは庶民の勝手です。作家の人間性がどうであれ、庶民の幸せには関係ない。それだけのことです。・・・とんでもない人間に政治をさせて、権力と莫大な公金を自由にさせたことが大間違いですね。庶民に莫大な損害を与えました。ところが・・<2020年のオリンピッ招致も?>・・ですって?・・・ふざけるんじゃないよ。とんでもない人にやってもらって、庶民の幸せをまたまた害されてはたまらない。私人であるべき人は、あくまで私人で終るべきです」

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2009年10月 2日 (金)

近現代史3、21カ条要求(大正3年)

1、三郎「≪1、日清戦争≫、≪2、日露戦争≫に続いて、≪3、21カ条要求≫の話をするぞ。・・・21カ条要求と言うても何のことか分かるまいのう・・・・」 六郎「そうですね。聞きたいですね」 三郎「その前に、明治時代の日本の膨張について簡単に話すぞ。先ず琉球処分じゃ。琉球(沖縄)は維新前から薩摩藩に所属していながら、同時に清国に朝貢していた。いわば日清両国に属していたということになる。明治政府は、明治5年に一方的に琉球藩としてしまったんじゃ。これを、清国は認めず、琉球も各国に救済を求めた。が、明治政府は軍隊や警察で圧力を加えて、明治12年に日本国の沖縄県としたんじゃ。清国は来遊した前アメリカ大統領グラントに調停を依頼したりした。最終的には日清戦争の日本勝利で片がついたんじゃ」

2、三郎「その後は既に話したように、日清戦争の勝利(明治28年)で、日本は朝鮮に対する清国の影響力を排除すると同時に、清国から台湾を手に入れた。10年後(明治38年)には、日露戦争に勝利して朝鮮に対するロシアの影響力を排除した。明治38年9月5日調印の日露講和条約で、ロシアは日本の韓国に対する支配権を認めた。11月に入ると、日本は、韓国の外交権は勿論のこと、内政についても支配を求め始めた。韓国皇帝は強く反発したし、日本に対する義兵闘争が全国に起った。朝鮮駐箚軍司令部編の朝鮮暴徒討伐史によれば、1907年(明治40年)から43年までの4年間で交戦回数2819回、参加義兵14万人、死亡義兵数17688人という数字がある。明治43年8月、国際的非難を避けるために、<韓国皇帝が統治権を譲渡し、天皇がこれを受諾する>という形で、日本の韓国併合が実現したんじゃ」

3、三郎「さてと、ようやく、大正時代の話に入るぞ。大正3年夏に第一次世界大戦(独墺と英仏露の戦い)が始まったんだが、日本はこれを天佑ととらえた。日本は同盟国イギリスの要請を受けて、中国膠州湾のドイツ青島(チンタオ)要塞や太平洋地域(南洋諸島)のドイツ領を占領した。海軍も参戦したんだ(日本軍の死傷者数や軍事費負担は極めて少なかった)。南洋諸島とはヤルート・ポナペ・トラック・ヤップ・サイパンなどなどだ。戦後これらの島は日本の委任統治領になり、日本から移住して水産業や貿易をやる人がいたんじゃ。わしゃ、子どもの頃からよく<私のラバさん 酋長の娘 色は黒いが 南洋じゃ美人 赤道直下 マーシャル群島 ヤシの木陰で テクテク踊る>ちゅう歌を聞いたし口ずさんだもんじゃ。『酋長の娘』というこの歌は、南洋委任統治に由来するもんじゃ。あんた聞いたことないかい?」 六郎「残念ながらないですね」 

4、三郎「南洋諸島も戦略上重要であったが、青島についても、ドイツが敷設していた膠済(コウサイ)鉄道をも占領したんだ。青島から西にのびて済南(サイナン)と言うところまで行くんだが、ここから更に中国の 鉄道で北上すれば天津・北京という中国の心臓部は極めて近いんじゃ。先に<第一次世界大戦は日本にとって天佑であった>と言うたが、南洋諸島にしても膠済鉄道にしても、軍や膨張主義政治家にとっては、<労少なくして重要部分を手にいれた>ということになるんじゃのう」

5、三郎「ところで、更に、日本は、青島占領から2ヶ月後の大正4年1月に、この戦争を好機として、中国の袁世凱政権に対して、『21カ条の要求』なるものをつきつけたんじゃ。それは『①(さっき言うた)山東省でドイツが持っていた青島・膠済鉄道などなどの権益を日本に譲れ。②南満州の旅順・大連・満鉄などの租借期限を更に99年延長し、日本国民に土地の賃借権・所有権、居住・往来・営業権、鉱山採掘権などを与えろ。③中国沿岸の港湾・島を他国に譲ったり貸したりするな④中国政府に、日本人を、政治・財政・軍事顧問として雇え。警察官庁に多数の日本人を雇え。日中合弁の兵器工場を作らせろ。などなど』じゃ」

6、三郎「他国に対して物凄く高圧的な要求じゃろうが。当時はまだ帝国主義の時代じゃ。文明国は、他の文明国の権益を侵さぬ限り、未開国に対して理不尽な要求をすることが、ある程度許されるように思える時代だったんじゃな。・・・じゃがな、④などは、こりゃあ、中国を日本の保護国にするようなもんじゃ。じゃから日本は中国に対して④は公表するなと言うたんじゃが、中国は怒って暴露したんじゃ。さすがにアメリカもイギリスも、<④はひどすぎるぞ>ちゅうたんじゃ。日本は④をあきらめたものの、①〰③について、軍事力を背景にして最後通告を発し、5月9日に中国政府に認めさせてしもうたんじゃ。この時、一時、中国側で、激しい日貨ボイコット運動が起こったし、5月9日は、以後長期にわたって中国の反日ナショナリズムを鼓舞する記念日になったんだ。国恥記念日としてのう」

7、三郎「21カ条要求の波紋は、中国の反日運動を激化させただけでなく、イギリスに対日不信をもたらして日英同盟を継続すべきか否かの検討を開始させ、アメリカが同盟継続に反対したし、カナダそのほかの英帝国内自治領政府も同盟継続に強く反対した。かくして、大正10年12月13日に、ワシントン会議で日英同盟破棄が決まった。・・・これらが、昭和に至る歴史に、大きな影響を与えたことは言うまでも無い」 

8、三郎「さて、いささか脱線話になるんじゃが、・・・前にも話した『渡部昇一名誉教授著・昭和史』を見ると、《第一次大戦とシベリア出兵》などなど、大正時代のことも書かれておるんじゃが、21カ条要求については一言も述べられておらんぞ。そうして『第一次大戦やシベリア出兵に際して日本は非常に消極的だった。戦前の日本は決して軍国主義的ではなかった。第一次大戦に日本が本格参戦していたら、その後の日英同盟廃棄もなかっかことでしょう。本格的参戦しなかったことは実に惜しい。イラクへの自衛隊派遣(2003年)を見てもわかるように、軍隊というものは出すべき時に出さなくてはいけません。出すべき時に出さないのは<六日のあやめ、十日の菊、喧嘩過ぎての棒ちぎれ>、諸外国からの信頼を失う結果になってしまいます』と述べているぞ」 六郎「渡部先生は、熱烈な憲法改正論者でしょうね」                                          

9、三郎「第一次世界大戦が終わって、大正8年1月18日からパリ講和会議が始まったんじゃが、これに出席していた松岡洋右が、全権だった牧野伸顕に、後に手紙を書いた。『21カ条要求についての日本の弁明は、<泥棒したのは自分だけではない>というようなものです』とな。講和会議で、日本は、世界や中国から批判を浴びたんじゃ。日本は大正3年に<中国に返す目的で>ちゅうてドイツの山東半島(青島など)を攻撃したのに、後に21カ条要求を中国につきつけて奪ってしまったんじゃからな」

10、六郎「松岡洋右と言えば、後(昭和8年)に、日本の国際連盟脱退の演説を<さようなら>という日本語で括って退場した元気な外交官じゃが、その松岡にして、かくのごとし、だな。確かに先進国の帝国主義ちゅうもんは、身勝手なもんじゃが、そんななかでも、日本の21カ条要求は批判にさらされたんじゃのう!・・・被害国中国にしたら、そりゃあ、腹は立ったじゃろうのう」

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2009年10月 1日 (木)

新聞記事

1、三郎「9月30日朝日新聞夕刊に掲載された『昭和報道120』の要点を言うぞ。・・①昭和20年11月28日、衆院本会議で、斎藤隆夫が『戦争責任は東条と近衛にある。近衛には、日独伊三国同盟、日中戦争(→太平洋戦争)などの責任がある。近衛は、<日米会談に骨折った>、などと言い訳するが、日米会談は日本が中国に侵入した結果始まった』と。・・・12月6日、近衛・木戸ら9人に逮捕命令。近衛は出頭指定日16日未明、自宅で服毒自殺。54歳。遺書に<戦争犯罪人として米国の法廷に於て裁判を受ける事は堪え難い>と・・。翌17日の朝日新聞は『近衛の性格の弱さが、ずるずる戦争激発を容易ならしめた。公人としての政治的、道徳的責任は、断じて免れ得ない』と」

2、三郎「引用の続き。・・②当時、朝日新聞に小坂徳三郎がまとめた近衛公の手記が連載された。・・昭和20年12月30日(最終回)には『統帥権の問題は、政府には全然発言権なく、政府と統帥部との両方を抑え得るものは、陛下ただ御一人である。しかるに陛下が消極的であらせられる事は、平時には結構であるが、和戦何れかといふが如き国家生死の関頭に立った場合には障碍が起こり得る場合なしとしない』と。・その手記を読んで、天皇は側近に語る。『近衛は自分にだけ都合のよいことを言っているね(藤田尚徳・侍従長の回想)』・・・・以上の①②が、昨日の夕刊からの引用要旨じゃ」

3、六郎「性格・能力を考えずに、安易に政治家を要職につけた結果が、あの国民的大被害ですね。性格とは、何より、国民に対する責任感・愛情であり、、能力とは、何より、理解力・判断力・決断力ですね。近衛・東条両氏はその意味で最低ですね。任命に関与した人々にこそ、大きな責任がありますね。・・などと言っていますが、ついこの間までの自民党無責任首相たちも、まさに最低でした。大したことが起きなかったからいいものの、あの首相たちを任命した無責任政治家たち(自民党員)こそ、最低集団ですね。2度と彼らを当選させてはなりませんね」

4、六郎「近衛氏の手記にある統帥権云々は、その通りですが、それにしても、<日中戦争の開始・継続や日独伊防共協定締結に近衛内閣が責任ない>などということは言えません。この弱さ・卑怯ぶり、が、まさに人選の誤りですね。天皇の感想?はじめて聞きました。旧憲法下、天皇の地位は不明確でしたが、・・それにしてもいささか驚きですね。・・国民(死者300万人、被災者何百万人)に対して一体誰が責任を感じるんでしょうかね。・・・何度も言いますが、これからが大いに心配ですね」  

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