1、三郎「今日は『近現代史4、満州事変(昭和6年)』の話をするぞ。ここでも前座の話が二つあるぞ。①関東軍とは?②張作霖爆殺とは?の二つじゃ。・・・まず関東軍。これはかつての日本陸軍の一部だ。明治38年に、日露戦争に勝って、日本はロシアから関東州と呼ぶ租借地(3462平方キロ、中国領満州の遼東半島の先の方。旅順・大連などの都市がある)と満鉄付属地、(430キロ余の満鉄と言われる鉄道線と、その線路の両側の土地)を手に入れた。今までロシアが清国(中国)から得ていた租借地と鉄道線を日本に譲ったわけじゃ(中国政府は有無を言わさず承知させられた)。これらは、日本の領地みたいなものだから、それを守る軍隊が必要だ。いわば関東州駐屯部隊だ。これが大正8年の機構改正で関東軍という名前になったんだ。任務はやはり関東州および満鉄の防衛だ。前に話した大正4年の21カ条要求で、関東州らの租借期間は大幅に延長されておったんじゃ」
2、三郎「次は張作霖(チョウサクリン)爆殺事件じゃ。張作霖ちゅうのは、もともと馬賊の親分で、大正から昭和のはじめ頃にかけて、中国の中の満州の部分(万里の長城以北、東部)を支配しておった。万里の長城以南の中国は蒋介石などが支配していた。なお、中国では、清朝が倒れて大正元年に中華民国になっていたが、その中国には、明治33年の北津事変の時に在留邦人保護の名目で天津付近に入った支那駐屯軍とか、さっき言った関東軍とかの日本軍がずっと駐屯しておったんだ。つまり、その頃の中国には、張作霖とか蒋介石とか孫文とか、中国人親分たちの勢力が割拠していたが、そのほかに、日本軍その他の先進国軍が居留民保護などの名目で駐留して、それぞれの権益を守っておったんじゃ。ややこしい話じゃ」
3、三郎「日露戦争当時、<張作霖はロシア軍と通じた>とされて日本軍に捕らえられたんだが、当時の満州軍総司令部の作戦参謀田中義一に命を救われた。それから日本軍に協力するようになった。やがて、張作霖は満州全体を支配するようになり、首相になった田中儀一は、<張作霖を利用して、日本の権益を安定させ拡大するのが得策だ>と考えておったようじゃ。それに対して、陸軍や外務省は、張作霖を邪魔にし、<あいつを除いて満州を支配すべきだ>と考えておったようじゃ。外務省で言えばあの奉天総領事・吉田茂じゃ。麻生前首相の祖父じゃ。吉田は昭和2年6月10日に『張作霖にとって最も重要な奉天工廠を占領するか、山海関・渄南・吉林など鉄道主要地点を日本側は占領すべきだ』と具申しておるぞ。吉田茂は陸軍ばりの強硬外交官じゃのう」
4、三郎「昭和3年6月3日のことじゃが、関東軍参謀の河本大作が、北京で戦いに負けて満州の奉天に帰ってくる張作霖を、橋の上で列車ごと爆破して殺したんじゃ。これが所謂張作霖爆殺事件じゃな。河本は、<張作霖が殺されてごたごたが起きるのをきっかけにして、関東軍が満州を占領すればいい>と思うたんじゃな。河本大作参謀は、張作霖爆殺を、国民党・・蒋介石らの党・・の工作人の仕業に見せようとした。偽装工作じゃな。中国人のアヘン中毒患者ら3人捕まえて、殺して爆発現場付近に死体を置こうとしたんじゃ。ところが1名は逃げて、事もあろうに、張作霖の息子の張学良の所に駆け込んで<かくかくしかじか>と注進したらしいぞ。それに、爆殺に使った爆薬が橋脚にくっついておったんじゃが、それは日本軍独特の高給黄色火薬だった。犯人に仕立てた二人の死体は見るからにアヘン患者。彼らの懐にあった暗殺趣意書は日本式漢文。爆薬と爆破スイッチを結ぶ電線が少し離れた日本軍監視所に引き込まれていた」 六郎「なんと、お粗末!・・・・・ですが、犯人が日本軍でないとなっていたら、張作霖配下の奉天軍と日本軍の戦いのきっかけにはならないんじゃないですか?」
5、三郎「エエこと言うぞ。じゃがな、<爆殺現場は満鉄線上だから、日本の租借地内だ。張作霖親分がそこで爆殺されたら配下の奉天軍が現地に入って来るだろうが。そうしたら、主権侵害を口実に奉天軍を攻撃できる>と考えたんじゃないかい?ともあれ、犯人誤魔化し工作もエエ加減だったんじゃのう!ところが、奉天軍指揮官が慎重派で、満鉄線に入ってこんかったから戦闘にならんかった。。一方、奉天軍来襲に備えて待機させていた日本軍兵力も、河本から計画を聞かされてなかった参謀が解散させておった、そうじゃ」 六郎「なんとも、なんとも、エエ加減な話ばかり!!。・・・それが帝国軍人のやることですか?」
6、三郎「結果は爆殺だけで終わったんじゃが、犯人が河本大佐(実行は東宮鉄男大尉ら)であることは明々白々だな。息子の張学良は、親父の跡を継いで満州の親分(保安司令)になると同時に、蒋介石(国民政府)と仲良くすることにしたんじゃ」 六郎「ほう、関東軍は、爆殺をきっかけにして、満州を取ろうとしていたのに、満州が中国本土側についてしまった!・・河本の大失敗ですね」 三郎「そうじゃ。だが、<河本関東軍参謀が張作霖を殺した>ということは、こりゃあ、大問題だぞ。・・勿論、河本・東宮だけでなく、関東軍も陸軍中央も、すべて、河本犯人説を否定した。陸軍出身の田中義一首相は困り果てた。事件から半年もたって12月24日に、ようやく天皇に会いに行き『これは世界的にも大問題です。・・もしも、陸軍の手がのびていたのであれば、厳罰に処します』と言うたんじゃ。天皇は『よろしい。しっかりやれ』と」
7、六郎「関東軍幹部や陸軍中央の関与は?」 三郎「事前からあったんじゃないかい?・・半藤一利さんは書いておる。『当時の白川義則陸軍大臣が用意した3000円が、河本を経て、この事件にかかわった日本人に渡った』とな。・・・それから、『昭和4年5月6日、ほぼ事件1年後になって、田中首相は天皇に<陸軍とは関係ありませんでした>と。天皇は<前と話が違う。辞表を出してはどうか>と。・・・7月2日、田中内閣総辞職。直後に田中死亡。自決説も・・・』と書いておるぞ。・・・・・さて、前座の張作霖爆殺事件の話が長過ぎたのう。最後に『大江志乃夫著・張作霖爆殺』から三つだけ引用して終わる事にするぞ。①『昭和5年10月1日、予備役編入(退職)になった河本を招いて、赤坂で、盛大な慰労宴があった。出席は二宮参謀本部総務部長・畑同第一部長・建川同第二部長・小磯陸軍省軍務局長・永田同軍事課長・梅津歩兵第一旅団長・東条歩兵第一連隊長・・・・・』②『張作霖爆殺事件の処理をあやまった結果として生じたもうひとつの致命的な弊害は、出先軍の専恣(センシ・わがまま)をゆるす結果になったことである』③『天皇が張作霖爆殺事件の処理にあたってゆるめた統帥権の手綱が軍部という暴れ馬の暴走をゆるし、この暴れ馬はみずから暴走する力がつきて倒れるまで、とどまるすべを知らなくなった。・・このあばれ馬のひづめにかかって多くの国民、さらに多くのアジアの民衆が犠牲となったのである』」
8、三郎「この『大江志乃夫著・張作霖爆殺』からの引用の③の<暴れ馬の暴走>とは、勿論、張作霖爆殺事件(昭和3年)だけではなくて、3年後の満州事変(昭和6年)、9年後の日中戦争(昭和12年)、13年後の太平洋戦争(昭和16年)を経て、17年後の敗戦(昭和20年)までのことである。・・・・・なお、その後についても『昭和20年以降、国民の低い政治意識が、自民党族議員という暴れ馬の暴走を許し、60余年にわたる暴走のひづめにかかって、国民の福祉が犠牲となったのである』と言いかえることが出来るんじゃぞ。戦後・・先日の政権交代まで・・戦争こそなかったが、自民党族議員らの私利私欲・政官業癒着は、膨大な税金の不正使用を行い、850兆円余に及ぶ国の借金まで残しておる。その累は子々孫々にまで及ぶんじゃぞ」
9、三郎「やっと、これから、満州事変の話に入るぞ。・・・張作霖爆殺から3年後の昭和6年9月18日に始まった戦闘・・・。これを、満州事変と言うのじゃ。午後10時20分頃、奉天(現在の瀋陽)駅付近で南満州鉄道が爆破され(命令を受けた関東軍の今田新太郎らが隠密塵に爆破した。柳条湖事件という)、これをきっかけにして関東軍が軍事行動を開始し、満蒙一帯、すなわち満州(中国東北地方)や内蒙古東部の武力制圧に乗り出して制圧してしもうたんじゃ。日本の傀儡国家である満州国が生まれたのは、事変勃発から6ヶ月後にも満たない翌昭和7年3月1日なんだ。3年前の張作霖爆殺と比べて、極めて計画的に緻密にやったんじゃな」
10、三郎「関東軍兵力は1万人そこそこ(1万400人とか言われたが)だったから、関東軍の板垣・石原参謀らは緻密に計画し独断で事を進めた。①当時中国は首都南京で国民党政府主席・行政院長・蒋介石が勢力をふるっていたが、満州は当然中国の一部とされ、実質的にその満州を支配していた張学良は、蒋介石と良好な関係を保っていた。満州事変勃発時、蒋介石は30万の兵力を率いて、江西省の南昌(中国南部)で共産軍(紅軍)と戦っていた。南京にはいなかった。石原は知っていたはずじゃ。②満州を支配していた張学良も、9月18日の夜は、11万の兵を率いて、万里の長城を越えた華北の北平(北京)にいた。日本の特務機関が、張学良に対する反乱を華北で起こさせて、張学良を引きつけた」
11、三郎「③事件発生時、関東軍司令官本庄繁は奉天を離れて旅順にいた。鉄道爆破が行われるや、板垣は連隊長らに『張学良軍の攻撃である。奉天城・北大営を攻撃せよ』と命令した。・・・これは勿論統帥権干犯(陸軍刑法では死刑に値する)。④石原参謀と朝鮮軍作戦参謀神田正種少佐との間では事前連絡ができていた。関東軍の20倍の張学良軍(奉天軍あるいは東北軍)に対抗するには朝鮮軍の応援が必要であった。日本主権下の朝鮮軍が朝鮮・満州国境(鴨緑江)を越えて中国主権下の満州に入るには、当然、天皇の命令(奉勅命令)が必要であるが、林銑十郎朝鮮軍司令官は、それを待たずに、独断で朝鮮軍を、21日に、越境させた。先の板垣参謀も林司令官も、罪に問われなかったぞ。張作霖爆殺以来、軍の規律は一段と緩んでおった」
12、三郎「話し始めたらきりないなー。あと一つだけ、石原らの周到な準備の実例を話すぞ。⑤張学良の奉天城を攻撃するためには大きな大砲が必要であった。関東軍は24サンチ榴弾砲2門を内地から運ばせていた。客船を使って神戸から船に乗せ、大連で陸揚げするときは、兵隊たちが支那服を着て作業した。砲身を箱で覆って、<さる高官の棺だ>、と偽ったそうじゃ。事変が起こり、関東軍は北大営攻撃などに、この巨砲を大いに活用したそうじゃ」
13、三郎「日本軍は、張学良軍を撃破して、満州の北の方まで進み、11月18日にチチハルを、翌昭和7年1月3日には、西の錦州を占領し、やがては、満州と中国本土の境界線で万里の長城の起点山海関まで進んでしもうた。昭和になる頃は、世界の帝国主義に反省が出てきて、昭和3年には各国で不戦条約というものも結ばれていた。日本の満州進出は自衛とは認められない、不戦条約違反だ、という強硬意見が各国の間に強くなった。アメリカも然りじゃ。板垣・石原らは、<支那人たちが独立を図っている。日本はそれを手助けするだけだ>というジェスチャーを見せた。と同時に世界の目を別な所に向けさせるために、田中隆吉中佐をして、上海で事件を起こさせた。日蓮宗のお坊さんと信徒が南無妙法蓮華経と唱えながら托鉢しているのを中国人に襲わせて、2人が死に3人が重傷を負った。上海事変じゃ」
14、三郎「日本は上海派遣軍を送って中国軍を破り、これまた<南京まで、行け行け>という雰囲気であったが、ようやく白川義則司令官がストップをかけたんじゃ。昭和7年4月29日、天長節の日に調印式が行われた。この上海事変の一般被害は、死傷者約4万人、家屋全半壊16万個に及んだというぞ。当事者たちにとっては、何とも痛ましい戦いじゃ。世界の目をそらせる、たったそれだけのために、この被害じゃ」
15、三郎「ところで満州では、関東軍が、奉天省・吉林省・黒竜江省という満州地域を形成する3省の首席を集めて、彼らが自主的に建国を決めたような体裁をとらせた。これが昭和7年2月19日の満州国建国宣言じゃ。そして3月1日の中国本土からの独立宣言じゃ。・・・蒋介石が国際連盟に提訴したから、満州問題は国際連盟で討議され、リットン調査団と言うのが調査に来た。その報告は必ずしも日本を悪とばかりは言うていない。不戦条約違反などとは書いていない。ただ、①9月18日(満州事変勃発・柳条湖事件)の行為は、合法的な自衛の措置とは認められない②満州国は日本の関東軍の力を背景に生み出された国である。③日本は満州が中国の主権下にあることを認めるべきである。と書いてあった。国際連盟では、<日本は11月16日までに、いったん満州国から手を引いいたほうがよい>と言うたんじゃな」
16、三郎「そうして、昭和8年2月24日の国際連盟総会で、日本軍の満州撤退勧告が42対1(日本)で採決された。そこで、日本の松岡全権は国際連盟脱退を宣言し、最後に<さよなら>と言うて席を立ったんじゃ。日本は世界の孤児になったわけじゃな。このことは、その後の日本・・日本人・・東洋各国人・・世界各国人・・の運命に大きくかかわっておるぞ。半藤一利氏は国際連盟脱退後のことを『〈勇んで栄光ある孤立を選んだ〉などという言葉でもって、日本国民は〈今や日本は国際的な被害者であるのにさながら加害者のごとく非難されている〉と信じ、ますます鬱屈した孤立感と同時に〈コンチキショウ〉という排外的な思いを強め、世界中を敵視する気持ちになりはじめる。排外主義的な攘夷思想に後押しされた国民的熱狂がはじまりました』と書いている」
17、三郎「最後に、〈日本はなぜ満州事変を起こしたか〉に触れておくぞ。明治以来、日本は日清戦争に勝って、国家予算の3倍の賠償金や台湾を手に入れた。日露戦争に勝って関東州(旅順・大連等)と満鉄を得、5年後に韓国を併合した。第一次世界大戦では山東半島の旧ドイツ権益や赤道以北の旧ドイツ領南洋群島を手に入れた。日露戦争後、日本とロシアは〈南満州・内蒙古東部は日本の、その先はロシアの〉というように、他国の領土に、勝手に勢力範囲を決めたんじゃ。山県有朋式の利益線の拡大じゃな。なお、具体的な一例を言えば、たとえば満鉄(南満州鉄道)では、運輸業のほかに鉱業・・特に撫順・煙台の炭鉱採掘・・、水運業・電気業・倉庫業・鉄道付属値の土地・家屋の経営などなど、・・様々な権益があったんじゃ。・・・やがて昭和になった」
18、三郎「加藤陽子氏の本には『昭和6年7月、〈満蒙のための武力行使は正当か〉という問いに対して東京帝大生の88%が〈然り〉と答えた』とある。その頃、前に言うた〈鬱屈した孤立感〉や〈軍国主義的思想〉が、軍そのほかによって唱えられていたのじゃのう。日本は戦争によって満州の地を手に入れていたが、例えば、〈満鉄に平行する鉄道は作らない、という日中の約束を、中国は守らない〉などなど、日本の権利が侵されている、という宣伝もなされておった。国民一般の意識は、先の東大生のそれに近かったんじゃな」
19、三郎「一方、軍には、関東軍石原参謀の最終戦論に発する思想が根底にあった。これが満州事変への原動力だったんだ。石原の考えをごく単純に言えば次のようになる。『数十年の後には、日本とアメリカを中心とする二大勢力が人類最後の大戦争を戦うことになる。日本はその準備を急がねばならぬ』と。・・・石原によれば、満州事変は最終戦争のための第一歩になるんじゃ。対米戦争にも持久できるような資源獲得基地としての満蒙領有論なんじゃ。・・それも、『革命(ロシア革命・大正6年)によって生まれたソ連が、第一次5カ年計画(昭和3年10月開始)で軍事力を充実する前に、日本は満蒙領有を急がねばならぬのだ』という考えだったんじゃ」
20、三郎「大変長くなった。疲れてきたぞ」 六郎「満州事変がなぜ起こったか・・・がよくわかりました」 三郎「最後に、その満州事変頃から、小国主義論者石橋湛山などは『満蒙放棄論』を唱えておったぞ。例えば『さればもし我が国にして支那またはシベリアを我が縄張りとしようとする野心を棄つるならば、満州・台湾・朝鮮・樺太等も入用でないという態度に出ずるならば、戦争は絶対に起こらない、したがって我が国が他国から犯さるるということも決してない』とな。『半藤一利著・戦う石橋湛山』には『昭和10年代の対英米戦争への道は、そして結果としての旧植民地各国の独立による戦後の世界の成立は、まさしく湛山が予言するとおりになったのである』とあるが、満州放棄論の頃の湛山の説もまた、『今にして思えば、そうであった』と思わせるものなんじゃ。・・・最後に一つ、おかしなものを付け加えておくぞ。『渡部昇一著。昭和史』225頁じゃ。『満州国は、溥儀の熱烈なる希望にしたがって建国された国です。・・・大枠からいえば日本は、溥儀が父祖の地・満州に、満州国を建てて皇帝になろうとするのを邪魔だてする勢力を退けただけのことです』とあるぞ。・・・・・こりゃあ、満州事変当時に、関東軍が〈世界に対する誤魔化し・言い訳〉として言うたことなんじゃ。まったくその通りじゃ。・・・一体、これなんじゃい?・・平成の今、上智大学名誉教授の渡部さんが、〈80年前に関東軍がやった誤魔化し説明の中身〉を、そのまま、〈これが事実です〉と言うておるんじゃ。関東軍参謀が80年タイムスリップして、名誉教授になったんかい?・・・・・びっくりしたな、もう!!」
21、六郎「満州事変は、溥儀に協力しただけですって?・・国際連盟で〔日本軍は満州から手を引きなさい〕といわれて日本は連盟を脱退したんですよね?溥儀に協力しただけなら、もう満州国ができたんだから日本軍は引いたっていいはずですよね。だのに連盟脱退し、〔満州から撤退なんかするもんか〕という態度を示した。こりゃあ、矛盾ですよね。満州領有論(満州国傀儡化)は間違いない事実だと考えるしかありませんね」 三郎「ええ事言うぞ。その通りじゃ。話をはしょってきたから、ここで、少し詳しく付け加えるぞ。本からも引用して〈満州事変は溥儀に協力しただけ〉という妄言を粉砕しておくかのう!」
22、三郎「『野島博之著・謎とき近現代史』では『①関東軍の当面の敵ソ連は、昭和6年頃は経済政策で餓死者が出るほどだった。軍の整備もまだだ(前に話したな)今が、満州占領の好機②中国では蒋介石の北伐が成功して、統一ができかかっていた。満州を押さえている張学良も蒋介石と合体している。統一中国は各国の中国内の租借地変換などに出てくるはず。今の内に満州全土を抑えよう③昭和初期は昭和恐慌の時期だ。欠食児童や娘の身売りの頃だ。日本の独占的な資源供給地兼市場として満州が欲しい。人口問題もあった。アメリカは大正13年に排日移民法を成立させた。新たな移民先・食糧増産地として満州が欲しい④世界恐慌によってアメリカの立場が弱まり、関東軍の行動に干渉してくる可能性が減っている。⑤これらの背後に石原菅爾の言う〈アメリカとの世界最終戦に備えた資源・持久基地としての満蒙確保〉がある」
23、三郎「『渡辺龍策著・馬賊』から。『関東軍はすでに南満州を占領していた。いまや、かねての計画通り、天津に居住していた溥儀をひき出してこれを満州皇帝とする工作に着手しなければならない。溥儀は、はじめは、この工作をなかなか承諾しなかった。そこで、関東軍は、天津一帯の治安を謀略的に攪乱したり、爆弾入りの贈物をしたりして、溥儀とその周囲のひとびとに身辺の危険を感ぜしめた』・・『佐野真一著・甘粕正彦・乱心の礦野』から。『溥儀連行に直接関わった甘粕(正彦)本人は、・・温泉についてから溥儀に次のような条件を提示したことを物語っている。〈ホテルで、余は四カ条の誓約を皇帝に示した。1、自分勝手に通信しないこと、 2、政治に干渉しないこと 等であり、若し、これに違えば、即刻天津へ送り還すというものであった〉 ここでも甘粕は有無をいわせぬ強硬派ぶりを見せつけている』『昭和4年の秋の渡満から昭和6年9月の満州事変、これに続く同年11月の護衛という名を借りた溥儀の拉致連行までの謀略活動期の甘粕からは、出獄後悶々とする甘粕や、陰惨な滞仏生活は到底想像できない』・・甘粕は大正12年に、大杉栄ら3人を絞殺して一時入獄したんじゃ」