1、三郎「明治以来の国際間の戦争でも、その成り行きや意識には、色々あった。最初に、国際間にどんな取り決めがあったのか、ごく簡単に見ておく・・ここ(≪≫部分)は、飛ばしてもエエぞ。・・・・・≪①1648年・ウエストフアリア条約。<国家はそれぞれ主権を持ち、互いの領土を尊重し内政干渉を行わない>という近代国際法の基礎が出来上がった。が、②1907年(明治40年)・ハーグ陸戦協定。<アグレッシヴ・ウオー(先制攻撃・侵略戦争)は否定されていない。ただ、戦争する前に開戦通知をやれ、と>③1919年(大正8年)・ヴェルサイユ条約。<侵略した国が賠償責任を負う、とした>④1925年(大正14年)・ロカルノ条約。1928年(昭和3年)・パリ不戦条約。<侵略戦争(アグレッシヴ・ウオー)は違法行為だ、とした。ただし罰則規定なし>⑤1933年(昭和8年)・<侵略戦争の定義を明らかにした>≫・・・・・これらから分かることは、19世紀後半から20世紀初めにかけて、欧米列強は互いに対立しながら、アジア・アフリカ・太平洋地域への膨張・植民地獲得政策を進めていた。・・帝国主義時代じゃな。・・1868年に明治維新を迎えた日本は、いきなりこの体制に入りこんだ。・・20世紀になって、国際間に、帝国主義に対する反省の色も見え始めたが、なかなか帝国主義を捨てきれぬ国もあった。・・問題は、そんな中で、日本はどうであったのか?・・ちゅうことじゃな」
2、三郎「日本は、古くは遣隋・遣唐の昔から、対外膨張姿勢を見せてきた。徳川の鎖国260年間も、橋本左内・吉田松陰などは対外発展を唱えておったんじゃぞ。さて明治維新で明治政府ができると、早くも明治6年に征韓論争、翌7年に台湾征伐、8年に江華島事件(朝鮮に軍艦を派遣して衝突した事件)などが起きている。本来、膨張主義にも、武力によるもの、経済力によるもの・・・などなど、態様はさまざまある筈じゃ。・・そんな中で、武力による強引な膨張主義となると、これぞ、いわゆる侵略主義(帝国主義)であり、国内的には軍国主義となるものじゃ。明治日本は、山県有朋の有名な<主権線・利益線論>が示すように<富国強兵策>で始まったんじゃ。・・<主権線>とは国境線のことで、<利益線>とは主権線を守るために確保すべき地域(当面は朝鮮だが、満州も、更にはその外も・・・)のことだ。・・・だから、まずは、軍備拡張が続いた。具体的な兵力量で言えば、日清戦争前の10年間に、陸軍は5万4000人から12万3000人に、海軍も25隻2万8000トンから55隻6万3000トンに増強された。一般会計に占める軍事費の比率で言えば、明治10年代は20%前後、20年代は30%弱、30年代初めの数年間は40〰50%にまで達した」 六郎「国民はおとなしく貧に耐えていたんですね。だけでなく、出兵して勇敢に戦った・・・」
3、六郎「維新後、明治政府は、<国内統治の基盤が確立するかしないか>という早い時期から、武力による対外膨張を志したんですね?」 三郎「そうじゃ。まずは朝鮮狙いだ。その背景には、<帝政ロシアの南下政策(満州・朝鮮などへの侵略)に対して先手を打つ(つまり、日本の利益線を確保する)>ということもあったんじゃ。・・・ところで、朝鮮を手に入れるためには、清国を抑えねばならぬ」 六郎「はて、それはなぜ?」 三郎「おう、その説明が必要じゃな。・・昔々、中華思想とか華夷思想とかいう言葉・・漢民族が文化的に優れていて中央にある、とし、周りの民族を蔑視する思想・・があり、それが現実にもなっていた。宗属支配とも言われたが、帝国主義支配じゃな。清国と朝鮮には、もともとそういう関係があった。・・・だから朝鮮を配下にしようとすれば、清国を排除せんならんのじゃ」
4、三郎「朝鮮国内でゴタゴタでもあれば、清国は当然のごとく軍を出す。日本も口実さえあれば、朝鮮に軍を出したい。あの頃、天津条約なんちゅうものがあった。<日本と清国は、朝鮮にゴタゴタがあって、出兵するときは、互に事前通知する>と取り決めたもんじゃ。それも朝鮮抜きの取り決めじゃった。明治27年(1894年)、朝鮮で農民たちの反乱がおこったので、日本と清国はほぼ同時に朝鮮に軍を送った。日本は<朝鮮は清国の属国じゃない。清国が出兵したから日本もやるんだ>と言って、イギリスとかロシアに対する口実を作って軍を送った。陸奥宗光外相や川上操六参謀次長などが清国に対する開戦準備をどんどん進めておったんじゃ。<当時、参謀本部の東条英教少佐(東条英樹首相の父親)とか上原勇作工兵少佐(山県有朋に近い、後の元帥)が、命令を受けて活躍した>、という文献があるぞ」
5、三郎「日清両軍の朝鮮派兵によって、日清間の緊張は一挙に高まった。ところで、<7月23日、日本は、大陸浪人を使って漢城電信局の電線を切断させ、日本軍が朝鮮王宮を占領した>という文献がある。<7月25日に豊島沖で、日清艦隊の砲撃戦が始まった>という文献もある。が、<日清間で、どちらが先に攻撃を仕掛けたか>については今でも見方が分かれている。<相手が先に仕掛けてきた>とするために、記録が改ざんされる事があったようじゃ。半藤一利氏や別宮暖朗氏は<清国軍が先に攻めた>と言うし、秦郁彦氏は<仕掛けたのは日本軍だ>と言う。前に言うたように、20世紀になってしばらくして、先制攻撃(侵略)はいかんという雰囲気が国際間にはっきり出てきたようだが、明治27年頃も、日本は、<日本が先に攻めた>と言われないように気を使っていたようじゃ。<エエ格好しー>しておったんじゃな」
6、六郎「<どちらが先に攻めたか>よりも、日本は朝鮮を、利益線として確保するために、早くから<対清戦争を準備>していた。<清国もこれに対抗しよう>としていた。・・・これですね」 三郎「清国は、中華思想→宗属関係=中華帝国主義を維持しようとし、日本は先ず朝鮮を利益線として支配下に収めようとする。いずれも帝国主義だな。19世紀後半だから、国際間に、帝国主義に対する反省の少ない時代だった、・・とはいえ・・、いずれも帝国主義には違いないぞ。被害者は勿論朝鮮じゃ。田母神さんとかは『日本は他国を侵略したことはない』と言うちょるそうじゃが、どういうことかのう?・・彼は、山県有朋並みに<利益線確保は当然のこと>ちゅうのかい?それとも、<19世紀後半頃にやったことは侵略でも許されるんじゃ>ちゅうことかいのう?それとも<あれは、自立できなかった朝鮮を助けてやったんだ>かな?・・ものは言いようじゃのう。これなど、満州事変(昭和6年)頃の板垣・石原参謀とか、辻政信参謀を、思い出させるもんじゃぞ。・・・田母神さんは、<まさに辻政信の再来>なんじゃな・・・??」
7、三郎「日清戦争で、日本軍は、山県有朋指揮下の第1軍が、広島から釜山に上陸して、陸路仁川に。また広島から海路直接仁川にも。それから清国軍を追い、平壌を経て、中鮮国境の新義州あたりへ。さらに国境を越えて、清国の海城・営口へと進んだ。一方大山巌指揮下の第2軍は清国遼東半島の花園口に上陸し、金州・旅順・威海衛・大連から営口へと進んだ。その間旅順虐殺事件も騒がれた。更には、講和条約締結までに台湾島占領の事実を作っておいて、台湾をも割譲させようとした。台湾占領は比較的簡単に終わったが、日本軍はコレラの発生に苦しんだ。患者総数1700名、死亡者1000名であった。つまり、戦争目的は当初の<朝鮮から清国の影響力を排除すること>に<中国本土占領>が加わった。下関講和条約で、日本は、遼東半島・台湾・澎湖諸島と約2億両(テール・3億1000万円)の賠償金を得、清国が欧米諸国と結んでいた不平等条約を、日本とも結ばせた。それによって、沙市・重慶・蘇州・杭州での商業・貿易権を日本が得る開市・開港を約束させた。このころから日本人は中国人を見下げ始めたんじゃ」 六郎「チャンコロなどと?」
8、三郎「ところで、遼東半島については、露・仏・独の三国干渉によって、日本は清国に返すことになったんだが、この後、イギリスが山東半島威海衛を、ドイツが膠州湾を、ロシアが遼東半島の旅順・大連を、フランスが広州湾を租借した。日清戦争を機会に、日・英・独・仏・露が一気に帝国主義を加速させることになった。田母神さんは、これをなんと言うのであろうかのう?」 六郎「<帝国主義時代の侵略は当然のことだった。だから、それはいわゆる侵略じゃない?>と??」
9、三郎「戦争前から、勝海舟(江戸幕府の要人じゃったが、明治政府でもしかるべき地位にあった)は、<清国と戦争して勝ったとしても、結局は西洋列強の干渉を招くだけだ>と反対していた。その後の長い歴史をみると、なかなかの烔眼じゃった。<山県有朋的な利益線の確保、拡大・・>とは根本的に違う。勿論、山県的大国主義に対して、明治の初めから、日本に小国主義もあった。岩倉使節団はヨーロッパの小国も見てきたんじゃ。使節団の一人佐々木高行は<小国たるスイスやオランダは、小国としての体制と精神に徹して大国の侮りも受けず、信義をもって国威を発揚しており、日本としてはもっとも見習いたい国だ>と思った。が、日本は大国主義で突っ走った。日清戦争の勝利によって山県の利益線は朝鮮から満州に広がることになった。明治34年4月、山県は伊藤首相に対して<彼(ロシア)にして其強を恃み、進で我利益線を侵すに至らば、我亦意を決して之に当るの覚悟なかるべからず>と覚悟を促したんじゃ」
10、六郎「小国主義とは?・・逼塞(ヒッソク)主義?」 三郎「いや、いや、三浦銕太郎(テツタロウ)は、<大国主義は軍国主義・専制主義・国家主義で、小国主義は産業主義・自由主義・個人主義だ>と言い、植民地の拡大は経済的にも政治的にもマイナスである、として、早くから満州放棄を謳ったんじゃ。・・・戦後首相になった石橋湛山も、早くから同意見であった。彼らが挙げる小国主義の国とは、スイス・オランダ・ベルギー・デンマーク・スエーデン・ノルウエーなどなどじゃろうのう。敗戦後の、今の日本も、そうじゃろうかのう?(痛い目に遇うてしもうたが)」
11、六郎「イギリスちゅう国は、小国主義をかかげたりしながら植民地を拡大した。変な国ですね」 三郎「三浦は、かつて、<イギリスでは、大国主義と小国主義が相依り相輔け、相伐ち相磨きて、国民の福利を増進し、その発展を成就するに遺算なからしめたが、日本は明治維新以来、今日までほとんど大国主義を以て一貫した>という意味のことを言うたもんじゃ。大正の初め頃の言葉じゃったかのう?・・・繰り返すが、明治の初めから、日本にも、植木枝盛(エモリ)・中江兆民ら(民権運動家)は小国主義を唱え、その後、さっき言った三浦銕太郎とか石橋湛山が出たんじゃが、大国主義全盛下に抑え込まれたんじゃ」
12、三郎「あ、それから・・・、彼の有名な徳富蘇峰(トクトミソホウ)じゃが、当初は平民主義じゃったのが、『日本国民の活題目は国民的膨張にある。国民的膨張つまり大国主義は、他国への侵略ではなく、世界への雄飛であり、大義を布くことである』ということになった。陸羯南(クガカツナン)なんかも、もともとの国民主義から、最後には明治政府の大陸侵略に追随したんじゃ。明治22年の大日本帝国憲法や、翌年の教育勅語、そうして日清戦争(明治27・8年)と来て、日本は、軍事的膨張・・山県的利益線確保・・に統合されていったんじゃな」
13、六郎「その、徳富蘇峰の言う<他国への侵略ではなく、世界への雄飛だ>という言葉通りであれば、<例えば経済的雄飛だったら、むしろ小国主義だ>とも言えるんじゃないですか?この言葉通りであれば、誰かさんの『日本は侵略したことがない』も成り立つんですがね」 三郎「言葉の真意はともかくとして、当時、時の勢いは、ひたすら軍事的膨張に流れたんじゃ。・・・軽率な、曖昧な、あるいは意図的な・・・、そんな言葉が、思いがけない歴史事実を作って行く事になるんじゃのう!・・・前にも言うたが、最近、<本屋に誰かさんばりの本がたち並び>、<○○講演会に人が集まっておる>らしいぞ!・・約120年の逆戻りかい?・・あ、そうそう、明日は(8月30日・総選挙の投票日)じゃったな!しっかり選んで来んといかんのう!!」