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2009年6月

2009年6月27日 (土)

マイケルの死

1、三郎「マイケル・ジャクソンの死で、彼のヒット曲が大いに売れておるそうじゃな。<二度と出てこない天才>とか、<彼の私行の影には、幼い頃の父親の暴力があった>などと、論評も多い。ともあれ、すごい人気だ。この人気は、歌や踊りの見事さにあったのだろう。それが数々の私行の???を、かき消しておった」 六郎「長所が疑問点をかき消す?」 三郎「それが人気じゃ。芸能人らの人気はそれでエエんじゃが」

2、三郎「話を100%変えるぞ。前に話した・・例えばノモンハン事件。『半藤一利著・ノモンハンの夏』によれば、関東軍参謀部の板垣・辻参謀らが、中央の参謀本部の意向を無視し、機械化ソ連軍を『ソ連軍は消極鈍重、頭脳粗雑・非科学的、精神力を欠く』と決めつけて、関東軍将兵に銃剣突撃させて、多大の損害を受けた。敗北した。その二人は、2年後の太平洋戦争でも、同じような行動で、配下の将兵を、無謀な戦いに追い込んだ。日本国民を敗戦の奈落の底に落とした。辻参謀は戦後、国会議員に当選した。・・・服部・辻参謀などは、陸軍大学校で優秀な成績だった。弁は立った。・・・それが人気のもとだ。だが、<戦争したい。指揮したい。成績上げて出世したい。勲章欲しい>ばかりで<日本国民を守らねばならぬ>という一番大事なところが欠けていた」

3、六郎「見せかけだけで人気があった?・・みんなは一番大事なところを見落としていた?」 三郎「その通りじゃ。エエか、マイケル・ジャクソンなら、歌や踊りが優れておればそれでエエ。私行がおかしくても、それは実害ない。じゃが、軍人や政治家は国民の安寧を守るのが唯一最大の責務じゃ。・・要するにじゃ、政治家らに対しては庶民は、その見せかけに惑わされずに、<唯一最大の責務を果たせる人間かどうか?>だけを評価すべきじゃ。なるほど、なるほど。そう思うてみると、今の政府与党に、合格者いませんね。・・・・あ、有名俳優の兄弟で、弁が立つ某知事も・・・・」

4、六郎「某知事の<東京マラソンやりたい。オリンピック招致したい>は、さっきの参謀たちの<戦争したい。勲章ほしい>そのものですね。参謀たちは<若者を無駄死にさせ、税金を無駄に軍備につぎ込んで、国を滅ぼし>た。知事は<税金(数千億円)を無駄使いして、庶民を見捨て、弱者を死に追いやる>わけですね。あ、そうそう、服部・辻参謀らが戦争中にやっていた、あの、肘を横に張る陸軍式の敬礼、・・それを今でも知事さんがやりますね。あの方がもっと早く生まれていれば、帝国陸軍の暴走参謀になっていたわけですね!幸い、今だからオリンピック誘致ぐらいで済んでいる?」 三郎「よく出来たぞ。完璧じゃ。あんたもようやく愚かな庶民・・天唾愚民・・から抜け出したのう。・・◎◎◎・・・じゃ」

5、六郎「東京へのオリンピック誘致について、日本国民の賛成は、たしか、50%ちょっとだそうですよ。オリンピック立候補4カ国中最低で、最高の国は日本より30%高い(80数%)そうですね。日本国民、案外、賢明じゃないですか?だけど、知事さんは、<オリンピック誘致について皇太子さまに協力願いたい>と強引に言っておるそうですね。あ、それから新東京銀行の失敗。・・あれについて、某銀行家が<ありゃー、傲慢なる素人の失敗じゃ>と言っていました」 三郎「強引・・傲慢・・かい。あの人にぴったりの形容詞じゃな」 六郎「都民の税金を浪費した責任は重大ですね。それにしても、最近は、<責任をとる>ということがないですね。<日本国諸幹部の堕落>・・ですかね?」

6、三郎「60数年前、太平洋戦争の頃、陸軍には<上官の命令は朕の命令と思え>ちゅう言葉があったんじゃ。将校が、天皇を利用して、おのれの権威を保とうとしたんじゃ。さて、60数年後、国民があんまり賛成しないオリンピック誘致に、皇室を利用しようという御仁がおる。あれもこれも、なんもかも、あの戦争中とおんなじじゃないかい!?」

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2009年6月25日 (木)

スーパーモーニングを見た・・・。ひめゆり学徒隊

1、三郎「テレビ朝日のスーパーモーニングを8時頃から10時前まで見たぞ。ニュースや芸能情報や、ゴチャ混ぜだが、なるべく多くの視聴者をつかもうという、その苦心の程はよく分かった。宮崎県知事に関する騒ぎもあったが、そんなのは置いといて・・。わしゃ、沖縄の<ひめゆり学徒隊?>について、認識不足であったことに気がついたぞ。我ながら情けない。わしも戦後沖縄に2度行って一応は見聞きして来たのに」 六郎「それは?」 三郎「あれは女子生徒たちの志願隊だったそうじゃ。わしゃ、軍が学徒たちを強制的に編成したのかと思うておったんじゃ」

2、三郎「中学女生徒達?が、志願して、ひめゆり隊として、(壕の中の)陸軍病院の負傷兵看護や、軍の食料集めや水汲み等をやったんだ。沖縄南端の壕に追いつめられ、最後は、軍から壕を追い出されて、米軍の砲爆撃によって、手足をもぎ取られ、血だらけになって死んでいったそうだ。その間約3カ月のことだった。生き残った人が話していた。①戦後40年経って、初めて当時のことを語れるようになったとか。それにはさまざまな理由があったと思われるな。<つらさ・怖さ>・・もしかりだが、<死んだ生徒の家族に対する思いやり>もあったようだ。<悔しさ・恨み・・・絶対許せない>という言葉もあったぞ」 六郎「それは米軍に対する?」 三郎「確かに米軍の猛烈な砲爆撃で、友人たちが粉々になって死んだんだから、そうも思えるが、わしゃ、むしろ、日本軍などに対する恨みのように思えるぞ」

3、六郎「米軍と戦っていたのだから、砲爆撃は覚悟していた?・・生き残った人は、自決用に渡されていた手榴弾の栓が抜けずに困っていたら、米軍が来て取り上げて、捕虜になったとか」 三郎「米軍の砲爆撃最中に、少女を水汲みに行かせるし、最後には壕から追い出した。そんな日本軍だ。軍の最大の任務は国民を守ることにあるのに・・。言葉にはせぬが、彼女らの恨みの一番の相手は、日本軍じゃないかい?<兵隊さんの為に>と志願して来た少女たちを放り出したんだ。満州でも、日本軍は国民を放り出して、列車で逃げた。・・・わしゃ、<自らは、絶対に、そんなことはせん>と思うておるが、あの頃、そんな卑劣な日本将兵が、少なくなかったと聞く。軍人として、男として、いや人間として、許し難い卑劣さじゃ。戦時・平時にかかわらぬ問題じゃ」

4、三郎「人間はエゴじゃが、それだけか?・・・。今も卑劣漢は、どこにでもおるじゃろうが、あの当時は、みんな、<国の為に>、という、それだけを基準にして、教育され、締め付けられておった。東条英樹陸相は戦陣訓を出して、『生きて虜囚の辱めを受けず』ちゅうた。<国の為に死ぬまで戦え。命惜しむな>ちゅうた。そうして、兵隊は<おのれの命を守るために、少女を壕から放り出した>んじゃ。東条式教育は、『人間』とか『人間性』を忘れさせておったんじゃな。・・・『戦争を忘れるな。その悲惨さを語り継げ』と言われる。全くそう思うが、<戦争になったときの人間の卑劣さ>・・、これも語り伝えられねばならんぞ。<戦争はあらゆる意味で最低>なんじゃ」 六郎「戦陣訓・・・。なるほどねー。そういえば、東京裁判の被告たちは、あれは、いわば、捕虜ですね。東条首相も逮捕されようとした。その時東条さんは自分が出した戦陣訓を思い出した。自殺しようとした。だが、死ななかった・・・・・」 三郎「あんた何を言いたいんじゃ」 六郎「いえ、いえ、別に・・・」 

5、三郎「②わしゃ、今日のスーパーモーニングで初めて知った。<ひめゆり隊員は志願したのだ>という事をな・・・。お父さんが大反対した。お母さんが泣いてすがってきた。当然じゃ。その時少女が言った。『お母さん、非国民と言われるよ』とな。そんな少女が、『お母さん』と叫びながら死んでいった。最近沖縄の壕の中で、死んだ少女の校章が見つかったそうじゃ・・・。当時の日本の空気は、ここまで至っておったのじゃ。わしが軍国少年になったのはあたりまえじゃ。少女の言葉を思い出すと、あんた、涙が出てこんかい??そこまでやったのは、古くは山県有朋・平沼騏一郎的人間たち・・・・、それから東条英樹・辻政信的な男たちじゃ。女にも、軍国主義的・非人間的な人物がおったはずじゃ。・・・いや、今でも、テレビで見る政治家や、なんとかいう女性小説家?や・・・は、全く『戦争の何たるか!』がわかっておらぬ。あんたら、充分心せんといかんぞよ」

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2009年6月24日 (水)

今日の新聞

1、三郎「今日の朝刊、3面が『削減8兆円・・』、2面『国交省、談合』じゃ。いつもいつも、腹立つのう。・・・『削減8兆円・・』は、7年前、小泉・竹中グループがやった社会保障費削減の話じゃ。<政治家3代目>の小泉、<ひたすら学者ブリ男>竹中じゃ。どちらの心にも、<庶民の生きざま>など皆無じゃ。財政再建とか、新自由主義とか、そんな建前はどうでもエエ。彼ら<心・情皆無男たち二人>がやったことで、生活保護母子家庭に加算されていた月2万3千円がゼロになった。あんたやわしなら、<2万3千円減るんかい。痛いけど仕方ないか!>で済むけど、母子家庭では、<母親昼食抜き>じゃ。それでも子供は<修学旅行不参加><高校進学やめる>になるんじゃ」

2、三郎「小泉・竹中は<儲けている開業医の診療報酬>は下げてない、<裕福な国民健康組合の国庫負担>も下げてない。それから、新聞2面には<国交省談合>ちゅうのがあったぞ。内容は、<役人は一度与えられた予算は、絶対に使い切る><役人の天下り先を確保する>ちゅうような内容じゃった。要するに税金を無駄使いするし、自分らの為に悪用する、ちゅうこっちゃ。小泉・竹中は、こういうことには手をつけておらん。今朝の新聞の、2〰3面見ただけで、政治家やエセ学者の超嬌慢・超酷薄が知れるぞ。勿論、小泉・竹中以降の自民・公明内閣の人間たちも、おんなじ超嬌慢・超酷薄人間たちじゃ。・・これが日本の政治じゃ。明治以来は勿論のこと、昭和20年終戦時以降も、ずーっと変わらぬ日本の冷酷政治じゃ。戦後60年間(1年くらいの間を除いては)、自民党政治が続いておる。それも、今日の冷酷政治の一因じゃ。ためしに、今度の選挙では野党・・民主・社民・共産など・・に投票してみたらどうかい」

3、六郎「それ言うなら、今日の新聞の18面の『声』欄にもありますぜ。<麻生首相が被差別部落出身議員(野中元議員?)のことで差別発言した。・・総理なんてとんでもない・・と言った>とか」  三郎「それ、事実らしいぞ。さっきの超嬌慢・超冷酷人間であることの実例じゃな。麻生首相は、昔の吉田茂首相のお嬢さんが嫁いだ麻生財閥の息子じゃ。吉田首相の孫じゃ。自民党に多い世襲議員の典型じゃ。ただでさえ自民公明には超嬌慢・超酷薄議員が多いが、世襲議員は特にそうじや。小泉氏も麻生氏も、世襲議員の典型じゃ。麻生さんのおじいさんの吉田首相が、昭和22年にラジオで国民に話しかけたんじゃが、労働争議やストライキを戒めたあとで、<私はかかる不逞の輩(フテイノヤカラ・不届き者)が国民中に多数ありとは信じませぬ>と言うたんじゃ。これで支持率が下がって次の選挙で負けたんじゃ。おじいさんの方が能力的には数段上じゃったが、嬌慢・酷薄は<おんなじようなもん>じゃなー。それにしても<おじいちゃんは失言、お孫ちゃんは失言+ブレまくり>ちゅうことじゃのう!」

4、六郎「吉田首相には、バカヤロー解散もありますね」 三郎「そうじゃ、そうじゃ。昭和28年じゃ。国会で討論しておった社会党議員に対してバカヤロウとつぶやいた。それがマイクに入っておった。・・と思うぞ。気持ちは分かるが・・・。吉田は、やっぱり、嬌慢族ではあったんじゃ。その頃日本は、相変わらず<エエとこの人間>を首相にしておった。それから60年たっても、吉田茂の孫を首相にした。・・・日本人はほんまに<ド、アホウ>じゃな。しかも、能力的に見ても吉田から数段劣る孫を・・・・・・」

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2009年6月23日 (火)

今日の新聞

1、3郎「朝日新聞の11面に『語りつぐ戦争』が載っていた。・・昭和21年10月頃(終戦14ヶ月後)、満州からの引き上げに際して、<生まれた赤ちやんは、みんな前の川に捨てろ>というおふれが出たとか。その時、投稿者は生後4か月だった。ほかの赤ちゃんは風呂敷にくるんで川に捨てられた。投稿者の母は、抑留中の夫が夢枕に出て<必ず連れて日本へ帰れ>と言ったそうで、投稿者を連れて帰国した。船中でも赤子が泣くと、<うるさい、海に捨てろ>と言われたとか。その時、一人の男性が母をかばった。その男性の名前の一字が投稿者の名前につけられた、とか。5年後にシベリアから引きあげてきた投稿者の父・・妊娠を知らなかった父・・は、投稿者を初めて見たときに、母に対して<その黒い小さい子は誰の子か>と言ったとか。・・・以上は現在63歳の女性投稿者が、後に母から聞いた話であろうな」

2、六郎「<赤子を川に捨てろ。・・海に捨てろ>・・信じられないことですね。そんな言葉を人間に吐かす状況なんて・・・。夢枕に出てきて<連れて帰れ>と言った父が・・<それは誰の子か?>と言ったという話は、いささか微笑ましてくれますが・・・。ともあれ、戦争の悲惨さは想像を絶しますね。今、みんなが戦争の悲惨さを忘れています。時の流れは仕方ないとしても、語り継がないと・・・。記録を残し続けないと・・・。それにつけても、先日聞いた、満州事変・日中戦争・ノモンハン事件・太平洋戦争と戦争を主導し続けた、一部の陸大卒業将校たち・・戦争を楽しみ、戦争をやりたがり、軍備に税金をつぎ込んだ・・保身と昇進と勲章獲得ばかりの・・そんな人たちに近い気分が、今の大人たち・・自衛隊幹部や、国会議員や、官僚たち・・に芽生えてきているのは<ゆゆしいこと>ですね。国民の中にも、<しっかりした軍隊があれば格好いい>というような気持ちの人がいるように思いますね。『戦争とは、赤ちゃんを川に捨てろ、というような状態だった』ということは、すっかり忘れている・・・・・」

3、三郎「あんたの言う通り、戦争の悲惨さは、未来永劫変わりゃせんが、戦争の態様は、あの頃と全然違う。1億2000万人の国民が住み、8000台の自動車、53基の原子炉、石油化学工場、石油やガスの一大基地、超高層ビル・・・そこへ核弾頭が・・・。地政学的に見て、もはや日本は戦争なんかできない国なんじゃ。やられたらもう終わりなんじゃ。アメリカやソ連や中国みたいな広大な国じゃないんじゃ。・・・じゃがな、近くの国が、日本を核攻撃できるかい?万一やったら、その国は忽ち数十倍の核弾頭を受けるんじゃぞ。・・・自国防衛は必要じゃが、方法は現実的でないといかん。日本核武装?本気かい?・・・日本は、何が何でも戦争が起こらないようにする。外交で・・、これしかないぞ」

4、六郎「なるほど、なるほど。自衛隊をそんな軍隊にするのは無意味・・だけじゃなく有害・・いたずらに緊張関係を生みだすだけ。自衛隊の役割は、警察力では不足なテロそのほかの攻撃に対処するもの、であるべき、ですかね?」 三郎「そうじゃな。それにな、本来、日本はテロなど無縁の国じゃ。フイリピン・インドネシア・アフリカそのほかのような国内テロはない筈じゃ。パレスチナテロもな。ところが自衛隊が米軍にくっつき過ぎて、準米軍のテロ攻撃を受けるということはありうるぞ。これは絶対避けねばならぬ。自衛隊の海外派遣とか、集団的自衛権などには、きわめて慎重・厳格でなければならぬ。世界で唯一原爆2発を受け、平和憲法を持ち、それを世界から評価されているのが日本なんじゃ。世界の希望の星でもあるんじゃ。それに徹するべきじゃ。宮沢元首相は『国連指揮下での平和活動には参加しても、武力行動には参加しない。利己的だ、臆病だと批判されようとも、この原則は変えることはない』ちゅうたんじゃ。・・これじゃ」

5、三郎「わしゃのう、昔々、教育宣伝によって軍国少年にならされたから、よう分かるんじゃ。つい、無責任に、いい加減に、<エエ格好したい>なんちゅう気分から、武力を強化したい、強そうな国にしたい、なんちゅう愚かなことをやって、遂に、何百万の子供・孫を不幸に陥れるんじゃ。愚行を繰り返してはならんぞ。更にじゃ、宮沢さんの言うたように、<利己的・臆病>というような批判に耐えることは、被爆国日本として世界の先頭を進む、貴重な行動なんじゃ。これを忘れるなよ。どうも、保守与党の政治家や、エエかっこしいタイプの評論家(女性も)などに・・、昔同様の無責任・いい加減タイプが、多すぎるぞ。そんな人間たちに、<文字読まぬ・考えぬ庶民たち>が踊らされるんじゃ。いかんぞ、いかんぞ」

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2009年6月21日 (日)

テレビを見ている

1、三郎「今、日曜朝7時半からの8チャンネルを見ている。自民党の2世の元超短期間の首相が出演しておる。印象①実にベラベラしゃべる。相手にしゃべらさないで。最近の若者そっくり。・・彼もまだ若い方だが、若者じゃない・・なんちゅうたって半年くらい?首相になって、逃げ出した人間なんじゃから。②話す内容は、目先の細かいプロパガンダのみ。麻生首相のブレの弁護、民主党の細かい批判・・こじつけの多いごまかしばかり。これが元首相の発言?小さい、小さい。ミミッチイ、ミミッチイ。③彼が世襲でなかったら、<サラリーマンになって、ようしゃべるだけの社員になって、せいぜい係長で定年!>という人物じゃ(能力人物から言って)。それが<2世であった>という、たったそれだけで、親父さんの地盤・看板・かばんで選挙に当選して、しかも、首相にまでなった(半年でよかったが)」 六郎「私も、まったく同印象です。世の中おかしいですね。世襲という不公平があるために無能・嬌慢な政治家が、国民の運命を左右する立場に就く???・・・おかしいですねー!!!」

2、六郎「今、8チャンネルは、与野党若手の討論になっていますね。自民党からは大野とかいう、しょっちゅうテレビに出る議員です。私、前から思っていましたが、大野氏の人間性・能力は、さっきの超短期元首相とおんなじですね。サラリーマンになったら、ベラベラ社員(口ばかり社員)・無能、で、<平社員で定年が当然>、という印象、ですね。彼の一番の印象は<品がない>ということです。これは、<しゃべり方・しぐさ・討論の中身・・顔つきも・・>などなどから見た総合判断です。それをたびたびテレビに出す自民党は、<党自体が品がない>ということを表していますね。それに対して、レンホーちゅうたかな?野党女性議員は論点もエエし、しゃべり方も立派ですね(なかなかきついが)。・・・テレビ討論をみると、人物・能力がよくわかりますねー。<みんな、よく見て、批判力養って、選挙に活かしましょうよ>と言いたいですねー」

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2009年6月18日 (木)

夕刊を読んで・・ノモンハン事件

1、三郎「昨日の朝日新聞の夕刊に、<ノモンハンの記憶、5>というのを見つけた。<5、>とあるのだから連載だったのに、わしゃ見落しておった。もう新聞は捨てた。残念じゃ。あんた、ノモンハン事件、を知っておるかい?」 六郎「いえ、知りません」 三郎「50歳半ばのあんたは、昭和30年前後の生まれじゃな、無理無いのう!・・たとえ、学校で近現代史を教えたとしても、この事件のことは、飛ばされてしまうだろうのう!・・・わしゃ、当時小学校3〰4年生じゃから、まさに現在進行形の、この出来事を聞いておったぞ。当時はラジオじゃな。新聞でも見たことはある。昭和14年じゃ。そのすぐ前(前年?)にあった張鼓峰(チョウコホウ)事件というのも覚えておるぞ」

2、三郎「ノモンハン事件の2年前に、既に日中戦争がはじまっておった・・最初は北支事変と言うた。ノモンハン事件の2年後に太平洋戦争がはじまった。これも・・昔は大東亜戦争じゃった。さて、そこでじゃ。日中戦争・太平洋戦争などは歴史で必ず語られるんじゃが、わしとしては、むしろ、ノモンハン事件のほうが、強く、心に残っておるんじゃ」 六郎「はて?それはなぜ?」 三郎「なんでかのう?・・わしゃ、①<当時、なんでこの時期に、また、ノモンハンでも戦争を?と、子供心に思うた>もんじゃ。チビの直感じゃな・・それともう一つ、②<今から20年程前に、わしが近現代史をあらためてひもといた時に、・・ノモンハン事件の2年後に、なんで太平洋戦争に突入したんじゃい・・?、という怒りがこみ上げてきた>んじゃ。この①②が原因で、わしのノモンハン事件に対する印象は極めて強いんじゃ。偉そうなことを言えば、<歴史を読み解く一つの手がかり>なんじゃ」 六郎「それは、それは、聞かせてほしいものですね」

3、三郎「あ、そう、そう、あの司馬遼太郎さんは、ノモンハン事件について詳細に調べたそうじゃ。勿論書くつもりでのう。じゃが、とうとう、筆を取らぬママに亡くなったんじゃ。わしゃ、そのことを3〰4年前に知ったんじゃが、その時、司馬さんの心がわかるような気がしたんじゃ。その後、司馬さんが『調べて行けばいくほど空しくなってきましてね』と、理由を語った、と聞いたぞ。わしゃ、<やっぱりな!>と思うたんじゃ」 六郎「はて、思わせぶりな??」 三郎「<ノモンハン事件にたずさわった帝国陸軍エリート軍人などの、あまりの愚かさ>、が司馬さんに、空しさをもたらしたんじゃ。<ノモンハン事件の前後にわたる10数年間の、あまりの愚かさ>じゃがな!。<何千万の日本国民を奈落の底に突き落とした、取り返しのつかなぬ愚かさ>じゃ」

4、三郎「前置きが長すぎた。ノモンハン事件は関東軍とソ連軍との戦いであった。そこで、昨日の新聞記事じゃが<5>だったから、戦後の話だけじゃった。まず、それを話すぞ。・・・・・昭和14年9月と翌年4月の2回、日本側とソ連側の捕虜がそれぞれ交換され、日本側は204人が戻った。・・・捕虜交換で戻った兵士らは陸軍の取り調べを受けた。短銃を渡され、自殺を強要された将校もいたという。軍は昭和14年9月30日付の通達で、元捕虜が軍法会議で無罪になっても、<厳重なる懲罰処分を行う>とし、処分後は日本以外の地で生活をさせるように指示している。・・ノモンハンの戦況または捕虜の件については<たとえ、親兄弟といえども口外するな>と指導された。結婚してソ連で暮らすよう迫られたが<郷里の母に会いたい>と拒み続けて帰還できた者もいた。現地に残ったままの捕虜もいたと言われている。・・・ノモンハン事件から2年後、東条英機陸軍大臣は<生きて虜囚の辱めを受けず>とする戦陣訓を定め、太平洋戦争に突き進んだ・・・・・ということじゃ。これが新聞記事じゃ」

5、六郎「戦陣訓以前から、日本軍は<捕虜を許さず>ということだった?」 三郎「そういう雰囲気だったんじゃな。外国の軍隊とは違っていた。そこへ東条陸相が明文的に決めつけた。外国の軍隊は、<もはやこれまで>と思ったら手を挙げて降伏する。東条陸相は、<そんなこと絶対に許さん>と、あらためて書いて、全軍に伝達した。<日本軍の強みは士気にある>という精神主義じゃな。そこで、この間話してやった事を思い出せ」 六郎「ああ、昭和15年11月、つまり、<ノモンハン事件の翌年、太平洋戦争の前年>、の話ですね。東条陸相は部下に命じて日米戦力比較資料を作らせた。結果は絶望的であった。その時東条陸相は<帝国には3千年の国体がある。皇軍の士気がある・・・>と言った。翌年東条首相は太平洋戦争に突入した」 三郎「これが帝国陸軍の風潮であった事は確かだ。その中でも、東条首相は、それの典型であった。彼はまた、典型的な天皇崇拝主義者でもあった。そして、天皇の心配は、常に日本国民の安全のことであった。にもかかわらず、東条は日本国民の安全をきわめて軽視した。じゃから、東条は大不忠者じゃ。・・これからノモンハン事件の話をするが、その東条と似た人物が何人か出てくるぞ。そればかりじゃない。今日ただ今の日本の政治家に・・特に与党の政治家や官僚や自衛隊幹部にも、東条的人物が少なからず居るのではないか?・・ということは極めて重大な問題じゃ。<歴史から学ぶ、どころか、歴史は繰り返しそう>なんだ。・・・」

6、三郎「ノモンハン事件は昭和14年のことだが、その前後の状態を簡単に話して置くぞ。・・・昭和6年満州事変、昭和7年満州国建設。昭和12年日中戦争(当時は北支事変)開始。また、ノモンハン事件2年後の昭和16年には太平洋戦争(当時は大東亜戦争)に突入した。・・・だから昭和14年当時、中国に24個師団(50万人)、満州・朝鮮に11個師団(20万人余)出していた。・・朝鮮は明治43年に日本が併合していた。満州国は一応独立国だが実質は日本の傀儡国で、その警備は関東軍が受けもっていたんだ。・・・ともかくノモンハン事件開始時、既にこれだけ兵力を出していたんだから、これ以上の兵力増強は大変困難であった。武器・弾薬・食料も大変だし、兵士はだんだん高年齢化の徴兵ということになってゆく。・・・そんな時のノモンハン事件なんだ。本来ならそんな事件は避けるべきじゃ。・・・ところで、満州国は4000キロの長大な国境線を有し、その向こうには強大な極東ソ連軍がいた。その頃の満州・朝鮮の日本軍11個師団に対してソ連軍は30個師団、日本軍の戦車200輌に対してソ連軍2200輌、飛行機は日本560機対ソ連2500機であった」

7、六郎「圧倒的なソ連の脅威?」 三郎「そうじゃ。そんな中で、中国戦線は泥沼に入り、引くに引けない有様となって行った。日中戦争は、昭和12年7月7日の盧溝橋事件で始まったが、7月30日北平・天津占領、12月30日南京占領、翌昭和13年5月19日徐州占領、10月27日武漢(武昌・漢口・漢陽の3都市)占領、と、最初は一見連戦連勝に見えたが、中国政府は奥地重慶に逃げ込み、日本軍が追い切れない状態で、昭和16年12月8日、太平洋戦争に突入したのだ。翌昭和17年暮れ、大本営は重慶政府への攻撃を中止することを決定せざるを得なかった。日本軍の主力は南方にシフトし、中国戦線ではかろうじて維持を図るだけとなった。これが昭和20年8月15日の終戦まで続いた」

8、三郎「日中戦争について、ひとつ付け加えておくぞ。昭和12年暮れに首都南京が陥落した後、日中和平工作がいくつか行われていた。中でもドイツ大使トラウトマンの仲介によるものに、参謀本部も乗り気だった。ところが、近衛文麿首相が強気で、『国民政府を相手にせず』という声明を出してぶち壊した。昭和13年1月16日のことだ。この<ボンボン・嬌慢・無能・無責任首相>の行動なかりせば、日本のその後の悲劇は、あるいは防げたかもしれん。軽減できたかもしれん。半藤一利氏によれば、その頃、・・近衛『彼らを相手にせずと宣言したものの、蒋介石が和平をいってきたらどうしたものか』小川(平吉)『そんなことは何でもないよ』近衛『そうだな、その時にはまた方針を変えればいい』・・という会話がなされたそうじゃ。今日も・・似たようなチャランプラン首相がおるようじゃぞ。首相の資質は全国民の運命を決するものじゃのにのう」

9、六郎「そんな緊迫した中で、<ノモンハン事件>という戦い迄やったんですか?」 三郎「そうじゃ。もう一度言うぞ、昭和12年から昭和20年までの8年間の日中戦争、その内昭和16年〰20年は太平洋戦争も・・・ということじゃが、分かりやすく言えば、日本は、昭和12年7月7日〰昭和16年12月7日の間中国と戦争、昭和16年12月8日〰昭和20年8月15日の間は、アメリカ・イギリス・オランダ・中国連合軍を相手に戦ったんじゃ。更に、この最後の頃には、ソ連軍も攻撃してきたんじゃ」 六郎「5か国相手、なんと、なんと!」 三郎「そんな大変な時代に、昭和14年の5月4日〰9月6日の4カ月日間、ノモンハンでまで激戦をやった」

10、三郎「そのノモンハンは、満州国の西北、モンゴル(外蒙古)との国境地区にある地名だ。そうして関東軍は、その地域を流れるハルハ河を国境線と考え、モンゴル側はハルハ河の東方13キロあたりを南北に走る線を国境線と考えていた。昭和14年5月4日、双方の認識が違う国境線付近で、満州国軍とモンゴル軍の間に小競り合いが始まった。それは即関東軍対ソ連軍の戦いになる。関東軍の参謀たちは、さっき言った彼我の戦力対比の数字を知っていたにもかかわらず、自国の軍事力への過信とソ連軍事力への過小評価を持ち続けていた。<兵器うんぬんなどよりも、士気の如何だ>という東条英樹とおんなじような考えは、日本軍共通のものだったんだろうなー。根底には、遠い昔の日露戦争の勝利があったのかもしれない」

11、三郎「一例を話すぞ。・・当時、日本軍の対戦車砲はソ連軍のT-34戦車に歯が立たず、一方、日本軍の戦車は、ソ連軍の砲によって簡単に射抜かれた。明らかに装備近代化の遅れだ。モスクワの日本大使館に勤務する駐在武官たちは、正確にソ連軍戦車の性能を東京に報告していた。しかし、そういう武官は、冷遇されて出世できなかった。まさにボール紙のような装甲の日本軍戦車が、ノモンハンの草原で鉄の棺になったんじゃ。日本軍幹部の意識の低さじゃ。精神主義偏重じゃ」

12、三郎「4ヶ月間、関東軍・ソ連軍間で激烈な戦いが行われた。特徴は、ソ連軍が戦車や大口径砲や飛行機をつぎ込み、潤沢な補給をしたのに対して、関東軍は手持ちの銃や剣を主体とした白兵戦をしかけた。『半藤一利著昭和史』によれば、<日本側は58、925人出動、戦死7720人、戦傷8664人その他を含めた損害数が19768人。それを出動人数で割れば、33%余の損害になる。普通30%で壊滅といわれる><中でも第23師団では、2万人のうち70%が死傷した><ソ連軍・蒙古軍も24、992人死傷>だそうだから日本軍の方が損害数はむしろ少ないのだが、<戦後、戦争の発端になった国境問題は相手の言う通りになった。つまり敗北だ。日本軍側の連隊長など指揮官5人が責任を取って自決し、1人が惨殺さる>ということであった」

13、三郎「事件後の軍の反省では<国軍伝統の精神威力をますます拡充するとともに低水準にある火力戦能力を速やかに向上せしむるべき>とある。問題の中心は勿論後者にある。前年の張鼓峰事件で体験し、ノモンハンで苦い経験を重ねた。が、それでも、対策が間に合わなかった。あるいは、まだまだ精神主義から抜けきれない幹部がいたんじゃな。かくして、無謀にも2年後には、ソ連軍以上に機械化している米軍に、いわば、素手で戦いを挑んだんじゃな。その裏には、尽忠報国=人命軽視(人権無視)が連綿と続いておったんじゃ」

14、三郎「<機械化軍に立ち向かう日本軍将兵の戦いがいかに凄惨なもだったか>想像に難くない。これだから『捕虜になることを許さず』として士気を鼓舞しないといけなかったんだ。さっきも言ったが、1年前(昭和13年7月)には、朝鮮半島東北端で、日本軍1個師団とソ連軍2個師団が戦い、ソ連機械化軍に向かって行った日本軍は大損害をこうむっていた(張鼓峰事件)。ノモンハンで同じことを繰り返したんじゃ」 六郎「中国戦線の膠着(50万人の投入)という中で、更には、張鼓峰での苦い経験の中で、また、ノモンハンで戦ったんですか?信じられません」

15、三郎「それだけではないぞ、その頃、つまり昭和14年は、日本は日独伊三国同盟を結ぶか否か・・それによっては英米と敵対することになる・・の岐路に立っていた。だから、東京の陸軍参謀本部が満ソ国境紛争に関して、<侵されても侵さない。紛争には不拡大で>という方針を関東軍に示していたのは、当然のことじゃ。ところが、服部卓四郎中佐・辻政信少佐そのほかの関東軍参謀部の連中は、中央の指示などは意に介せずに、ノモンハン事件を拡大したんだ。事件後、司令官たちは責任を取らされたが、服部・辻らは一時左遷されたものの、やがて参謀本部に戻されて、2年半後の太平洋戦争を推進したんだ。張鼓峰事件やノモンハン事件の経験・・特に軍近代化が大きく遅れていて、精神力とか士気に頼るしかない、という経験・・を、彼らは何の参考にもしなかった。わずか2年半後に太平洋戦争に突入し、服部・辻らが重要作戦を指導して、同じように多数の将兵を、米軍の重装備に立ち向かわせた。あまりにも愚かじゃ。しかも、彼ら陸軍が政治を牛耳って、戦争に向かわせたんじゃ」

16、三郎「昭和19年7月にサイパンが陥落して日本の敗色が濃厚になった時に、参謀本部作戦課長・服部卓四郎大佐が、<サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかったが、今から取り掛かってももう間に合わない>と言った。張鼓峰事件もノモンハン事件も充分に体験した彼が・・である。それらの体験からすれば、身を呈して対米開戦を阻止すべきであった。服部参謀、辻参謀・・・は、まさに低能小学生にも及ばぬ判断力の男、世にも稀なる鉄面皮男じゃな。日本の過去には、政治家にも軍人にも、こんな低次元男がうじゃうじゃおった。・・・いや、過去だけじゃない。今も・・・、じゃ」 六郎「司馬遼太郎氏が、遂に、ノモンハン事件を書かなかった、のは、やっぱり、<あまりに愚かしくて>・・・ということでしょうかね!」

17、三郎「ノモンハン事件・・こりゃあノモンハン戦争というべきじゃが、日本が対外関係で緊張状態にあった時に、満州国北西部ホロンバイル高原という草地について、<国境線が15キロ程東か西か?>ちゅう、それだけの問題でゴジャゴジャして戦争をはじめた。日本将兵はソ連軍の重火器や戦車砲や爆弾に素手で立ち向かった。20、000人近くの私傷病者を出した。・・いや死者だけで18、000人という説すらある。それぞれに家族があるのに・・・。前にも言うたように、日中戦争は泥沼の中にあった・・。張鼓峰事件だけで対重装備軍戦争は充分実感できた。それなのにノモンハン戦争と太平洋戦争を・・・。その推進の中心者は、陸軍大学を優秀な成績?で出て参謀になった、おんなじ人間たちだった。・・その中の一人は、太平洋戦争終戦後に国会議員になったりした・・・。こんなばかばかしいことが、日本の歴史には、多過ぎる。・・・何時も、<素手で砲弾に立ち向かわされる若者たち>の<取り返しのつかぬ短い人生>があったんだ・・・・・今後絶対にこんなことさせてはならんぞ。じゃが、・・ありうるぞ。自衛隊が野放図に海外に出されたらどうなるか?米軍に協力して戦わされたらどうなるか?・・・現自民党政権のようなものは、それを、簡単にやりかねないぞ。まさに、張鼓峰事件・ノモンハン事件・太平洋戦争の再来じゃ・・・」

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2009年6月16日 (火)

落合恵子さん。同感です。

6月6日の朝日新聞に、落合恵子さんの文が載っている。『浮かんだのは、雨降るあの日、父親の墓前で自らの生を絶ったとき、メディアを通して流れた彼女の写真だった。あの日、傍らには車椅子の母親がいたという』『あらゆる意味で疲労困憊し「このまま消えてしまえたら」と思う瞬間が人生にはあるだろう』と。・・彼女は、疲労困憊の極、心身喪失状態で、咄嗟に父の墓前で自死に及んだのであろう。「後に残る最愛の母」に、思いを致す暇もなく。・・なんともやりきれない・・。落合さんは『「彼女は、わたしだったかもしれない」。そう呟いた昨夜の友人からの電話が尾を引く朝』『この国の、政治と福祉に責任はないか』『なぜアニメの殿堂に117億円という巨額を・・』とも・・。まったく同感だ。『定額交付金2兆円を、なぜつぎ込まなかったのか』とつけ加えたい。この国の庶民としては、もはや、政権交代しかないが、そうなっても、永久に、厳しい監視が必要だ。

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2009年6月11日 (木)

夕刊を読んで・・・

1、北朝鮮で世継ぎが決まったと言われ、<○○大将>という歌を、さかんに子供たちに歌わせているという。<三男は七つの大学を出ている>などとも。戦争中の日本を思い出した。<兵隊さんのおかげです>などなど、戦争賛美や総動員を煽る歌を何時も聞かされ歌わせられた。今も近くの国を見れば歴史を実見出来るとは?・・・。歴史といえば朝日新聞夕刊が<昭和報道・テロの時代そのほか>をまだ続けておる。それにつられて、<テロ・・権力テロも・・>について・・・」

2、明治時代の権力テロの代表は大逆事件。これは何度も話した。が、理解してもらうために、繰り返す。・・・明治43年春頃。宮下太吉が爆弾作った。管野スガ・新村忠雄・古川力作が集まって、<宮下を含む4人で天皇に爆弾を投げつけるとすれば・・・>として分担を決めたりした。社会主義や無政府主義に惹かれていた人たちで、その話を聞いた者もいたが、<興味ない><そんなこと意味ない>などと思う者がいた。5月、官権が26人を逮捕した(報道禁止にしながら)。非公開の公判1カ月余で判決に。幸徳秋水・管野・宮下・新村・古川らを含む24人を死刑に。翌日、その内12人を終身刑に(特赦)。まさに死刑や終身刑の乱発・大安売りだ。判決の6〰7日後に12人の死刑を執行した。12人を死刑にして、行動を封じ、死刑によって世に警告を発する。終身刑の12人を長期間拘束することによって世間への影響を封じる。という事であろう。権力は、この大がかりな冤罪事件で、一應その目的を達したか?」

3、朝倉喬司氏は述べている。『明治憲法の、<天皇は神聖にして侵すべからず>の、べからず、は、<してはいけない>と、<侵すことなどできない>という意味。後者は<天皇のフイクション化>だ』・・・神格化だ。『この浮世離れした理念が、陰に陽に、無実の被告たちを死刑に追いやった』『職工の宮下太吉が<天子も人の子であって、生き神様なんかではない。人々の迷信を醒ます為に、赤い血を流させる>べく計画した』宮下は貧しい庶民の生活を実感していた。機械に挟まれて手を失う職工、美衣美食の資本家を見ていた。『山県有朋が背後に居る第2次桂内閣は、フイクションの高度化、強化で事態を乗り切ろうとした』『その瞬間に<腐敗の皇軍><八紘一宇>など、<標語化された神話力によって、世界の現実を律するパワーポリティックスに対処しようとして挫折するに至るその後の日本の筋道が用意された』・・・昭和につながった。『強化された統治のフイクションは、内に支配層の既得権益温存、外に(高度化に伴う作用圏拡大、つまり)膨張圧力として機能した』<フイクション化=精神論強化>で、<内は専制に、外には非現実的膨張・戦争へ>で、日本国民を奈落の底に突き落とした。『石川啄木や徳富蘆花が察知したように、大逆事件は、支配層が後戻りできない道を選択した』・・・一例をあげる。昭和15年11月、東条英機陸相と武藤章軍務局長は、陸軍省戦備課長岡田菊三郎を呼んで、日米戦力比の資料を作るように命じた。2ヶ月後に報告があり、すべてに絶望的な数字が並んでいた。岡田は「これは数字だけであり、皇軍の士気・規律を考えればいちがいに敗戦というわけではありません」と言い東条は「むろんそのとおりだ。アメリカには国の芯がない。日本帝国には3千年に及ぶ国体がある」と言った。東条はこの報告書を陸軍省の上層部にしか知らせなかった。明治の頃の、山県・平沼らの<フイクション化>がここに表れ、1年後の太平洋戦争に繋がった。

4、大逆事件は、まさに、権力テロ、冤罪殺人である。当時の司法省刑事局長・平沼騏一郎の『一人の無政府主義者もなきことを、世界に誇るに至るまで、あくまで撲滅を期する』という言葉通りである。山県有朋も『社会主義は敵だ』と繰り返していた。無政府主義とは「権力や強制を否定して個人の自由を拘束することの絶対にない社会を実現しようとする主義」であり、これが現実的になれば、社会主義とか民主主義になる。山県・平沼等の権力者にとっては、無政府主義も社会主義も、同じく、憎むべき敵であった。明治末の大逆事件は、日本の無政府主義・社会主義に大きな打撃を与えた。が、無政府主義者大杉栄や堺利彦・荒畑寒村などは、その時獄中にあったため(冤罪の理由をつけられず)、まぬかれた。『春3月 縊り残され 花に舞う 』は大逆事件の時に大杉が詠んだ句である。

5、それでも、吉野作造の民本主義などの大正デモクラシーは、か弱いながら、続いていた。そんな大正時代の権力テロの代表は大杉栄殺害事件である。・・・大正12年9月1日、関東大震災。戒厳令施行。大逆事件は一応裁判が必要であったが、戒厳令で実権を握った軍は、裁判もなく粛清・虐殺ができた。当時在日朝鮮人を恐れていた警察と、社会主義者(勿論無政府主義者も)を恐れていた軍は、戒厳令下、亀戸警察署内で虐殺を実行した。そして9月12日、通行中の大杉栄・妻伊藤野枝・甥橘宗一(6歳)を陸軍憲兵大尉甘粕雅彦らが拘束して、麹町憲兵分隊に連れて行き、3人とも絞殺して裸にして古井戸に投げ込んだ。これで犯行を秘匿しようとしたのであるが、明るみに出た。<真犯人は甘粕でない>と唱える人もいるが、真実をつかみようがない。いずれにしても犯人は陸軍内部であった・・・。さっきの 「春3月 縊り残され 花に舞う」の「花に舞う」を鎌田慧氏は「残された時間をさらに闘争にあて、豪華絢爛に散ろうとする決意表明のように読める」と書いている。その<残された時間>は13年間(明治43年→大正12年)であった。 

6、朝日新聞の夕刊を飛び飛びにしか見ておらんが、昭和初期については、その夕刊で見たものだけを、ここに紹介する。・・・まず、5月7日の夕刊に、「統帥権干犯」が載っておる。明治以来の天皇制フイクション化で、「軍は天皇が直接統帥する」ということになっていたから、「軍のトップ以外・・政治家など・・が軍のあり方に口出しするのは統帥権干犯である。怪しからぬ」という議論だ。この統帥権干犯という言葉が、その後の<軍の政治支配>につながった。美濃部達吉などは、この<統帥権干犯論>を批判していたが・・・。

7、「夕刊の「昭和報道」のなかの「満州某重大事件」の記事は、5月17日頃から29日頃まで続いている。・・・昭和3年、関東軍の河本参帽が中国の張作霖を爆殺した事件だ。満洲で、関東軍が利用していた張作霖が、関東軍の思うように動かなくなってきた、ので、河本大佐が爆殺したのだ。田中義一首相(陸軍出身)は、真相を知りながら、陸軍の圧力に負けてうやむやにし、河本大佐はろくろく処罰もされなかった。これが軍の独断専行を助長した。3年後には、関東軍の板垣・石原参帽たちが鉄道を爆破して満州事変を起こした。これが6年後に日中戦争へ、10年後に太平洋戦争へ、とつながって行ったのだ。

8、6月1日の夕刊から、「昭和報道」は「テロの時代」になっている。昭和3年は、日本の普通選挙開始年だ。この時から25歳以上の男子にすべて選挙権が与えられた。それまでの「一定額以上の税金納入者のみ」という条件が無くなった。勿論女子には一切選挙権は与えられていない。同じくこの年に治安維持法が施行されて政治活動に対する取締りが強化された。・・・その昭和3年に、和歌山で、右翼団体国粋会員によるテロ・・弁護士ら3人斬殺・・が行われた。原因は・・・?①初の普通選挙で野党・民政党の中村啓次郎が当選した。②警察は民政党を選挙違反で摘発した③中村の選挙事務所の会計主任・米崎久一郎が逮捕されたが、その際、拷問が行われたとして米崎と弁護士2人が警察官を告訴した。ところが、右翼の国粋会員が米崎らにその告訴を取り下げりように要求し、米崎らに断られたので、その3人を斬殺したのだ。政府・与党・警察・右翼がつるみ、テロが行われた、ということだ。・・・・・ところで、最近、同じ行為なのに、野党議員秘書は逮捕され、官房副長官が「与党のそれには及ぶまい」と言った、という事件があった。80年の時間差があるが、なにか似ているように思える・・・。

9、昭和3年の普通選挙は2月20日だった。この選挙で摘発された選挙違反は、与党・政友会63件、野党の民政党469件・労農党73件、政友会は少なかった?。・・・検察・警察の手心だ。・・・ところで、さっきの和歌山の弁護士ら3人に対する斬殺事件は3月6日だったが、10日後頃の3月15日には、全国で、共産党員が一斉検挙された(3・15事件)。この年には、全県の警察に「特高(主として対共産党専門部署)」が置かれ事になった。また、元労働農民党委員長大山郁夫は2月の選挙運動時、激しい弾圧を受けたりして、落選していたが、その大山郁夫は、4月11日に、東京駅で襲撃された。警察は現場で監視していたが、襲撃者を捕らえることもなく、むしろ、大山側の2人を、ビラをまいたという理由で拘束したりした。権力の偏向や、権力による思想弾圧の暴力化が、ますます目立って来たのだ。

10、昭和4年3月5日夜、東京神田の旅館・光栄館に宿泊していた旧労農党衆議院議員山本宣治が刺殺された。犯人は元警察官で右翼団体・七生義団の団員になっていた黒田保久二であった。黒田は懲役12年の判決を受けたが、減刑で7年後に仮出所となった。事件後、5月4日の東京朝日新聞は「裁判所までもが、左翼的思想を抱く者に厳酷、右翼的思想による犯罪に寛大なような疑惑あり」と書いた。そうして、この山本の葬儀では、警察は弔辞を途中で中止させたりもした。犯人黒田に有利な説明を記者団にした警視庁課長は、黒田と酒を共にするなど親しかった、と言われている。権力・警察と右翼は、依然としてつるんでいた。

11、昭和7年、2月から3月にかけて前蔵相・井上準之助や三井合名理事長・団琢磨が暗殺された。血盟団事件である。テロの大対象が財界人などなって来た。5月15日、海軍士官・陸軍士官学校生らが首相官邸・警視庁・政友会本部などを襲撃し、犬養首相を射殺した。テロの対象が政治家にも・・・。テロの動機も「農村の疲弊、漁村・商工業者・労働者の窮乏、・・東北地方の飢饉を聞いて、国軍存立のためにも・・現状打開の必要を感じ・・・」となる。テロ対象や動機にも変化が出てきた。国民もそれらの動機に感応し、遂に「減刑嘆願書百万突破」という事態になって来た。荒木陸将に新潟から送られてきた桐の箱に、小指9本と、9人の署名による減刑嘆願書が入っていた。埼玉県の東部線踏切で19歳の女性が飛び込み自殺したが、遺書に「5・15事件の方々を死なせたくない」とあった。東京朝日11月10日社説は「自己の主観的解釈と背馳すれば、直にこれを不満として軽挙まう動し得るやうに思考する傾向を生じたら、国家の紀綱を維持する上においてこれほど憂慮すべき事態はない」と説いた。この頃の新聞には、まだ冷静妥当なものがあったのだが・・・。

12、昭和初期の政治の貧困、貧富の差の拡大などは、国民に不満を積もらせたが、<明治以来のフイクション化・天皇神聖化>のもとで、批判の対象は、専ら<天皇を輔弼する責任のある政治家>や<搾取する資本家>に向けられて来た。かくして、同じくそんな社会情勢を批判する軍・・中でも若手将校・・に同調するような雰囲気が強くなって来た。・・・5・15事件などの犯人に対する減刑嘆願の声の大きさは、そこから来ていた。・・・つまり、暴力への寛容さが始まり、同時に、新聞など言論を標的にする傾向も強まって来た。・・・こんな中で昭和11年2月26日に2・26事件が起きた。反乱軍は、蔵相・高橋是清、内大臣・斎藤実、陸軍教育総監・渡辺錠太郎らを殺害し、侍従長・鈴木貫太郎に重傷を負わせた。・・・まさに、<天皇はあくまで尊い。しかし、天皇を輔弼責すべき人間の怠慢は許さぬ>ということである。また、反乱軍は、朝日新聞社をも襲った。国民も軍も、同じような傾向を見せて来た。・・・それから、2・26事件後、新聞社のなかに、軍の不興を買うことに対する緊張感が広がった。満州事変の時にも見られたが、新聞は軍に迎合する傾向を見せ始めていた。

13、この間、昭和6年以降、満州事変・満州国建設があり、国民は対内・対外的に軍の行動に声援を送る雰囲気に慣らされて行った。2・26事件の翌年には日中戦争がはじまった。・・・<権力や右翼による対左翼テロ>に始まった昭和時代は、やがて、<内には対国民弾圧・対天皇輔弼者資本家テロ、・・外には膨張主義>に向かって走リはじめた。・・・軍が主導しはじめ、それに国民大衆が同調し応援し始めた。その源には、明治43年大逆事件時の、山県有朋らによる・・<フイクションの高度化>をも見出すことができる。・・・・・段々、<天皇の統帥下にある軍の支配>が強まり・・・、国民は冷静さを失って、<軍国主義の扇動に踊らされ>て行った・・・。

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2009年6月 9日 (火)

6月9日の新聞

1、三郎「6月9日の朝日新聞1面と29面、併せて読めば、日本の現状がよく分かるぞ。1面・・「介護保険施設計画の半分」・・じゃ。29面は・・「介護サービス行政が主導」・・じゃ。その対比じゃ。1面の記事は、国が予算を削ったために半減した、ちゅうこっちゃ。特別養護老人ホームの入居待ちは36万人おるそうじゃ。年々増えておる・・入居待ち人数・・がじゃぞ。待っているうちに、本人も家族も、不幸な人生を終わっておるのじゃ。当人らにとっては、2度とない、一度限りの、人生じゃ。取り返しつかん。大悲劇じゃ」

2、三郎「29面・・スエーデンの老人が「貯金はないし、決して裕福とは言えません。でも、本当に支えが必要な時にちゃんと、介護サービスという形で戻ってきた。子供や孫ともうまくやっていける。最高に幸せよ」と言っている。こういうスエーデン庶民の言葉は、何度も何度も、読んだぞ。税金と社会保険料の合計がGDPの49%(日本は28%)だが、何時でも、スエーデンの老人は満足しており、日本には悲惨な老人・家族がいっぱいじゃ」

3、六郎「勿論政治・・政治家・・の違いですね。日本でその28%(税金+社会保険料)をあげると、ますますおかしなことに金が使われますね。117億円の国営マンガ施設などに・・・。麻生さんを首相にする自民党が政権取り続けたり、東京都が今の知事を選ぶようじゃー、日本は永久に望みなしですね」 三郎「何時も言うことじゃが、日本人は、他人をも自分をも軽視しておる。いわばアホウじゃな。傲慢・エゴの典型を首相や知事にして平気でおる。税金が彼らの好き勝手に浪費されても、気がついておらん。救いがたいアホウじゃ。「老人ホームなんかより国営マンガ施設だ、オリンピックだ」ちゅう政治家たち・・ことの重大性が全くわからん人間・・自己顕示とかおのれの利益とかしか考えん人間・・を政治のトップに据えるドアホばかり。多数決でな・・。それが日本人じゃ。あんたも日本人じゃ。あきらめろよ!!!」 

4、三郎「要は正義感の問題じゃ。あのな、わしの友人がこう言うとったぞ。『アンチ巨人フアンの中には正義感持ちが多い。昔、巨人軍は金にあかして有名選手を集めた。スポーツ精神を逸脱しておった。だから、アンチ巨人になった』とな。フアンかアンチフアンかの理由はそれだけではないと思うが、ともかく、日本人には正義感が少ないんじゃ。・・・見かけとか、雰囲気で、何でもかんでも判断してしまう。政治もそうじゃ。だから・・ドアホ・・じゃ」 六郎「巨人フアンを、正義感なし、と言われるのには異論ありますよ」 三郎「わかった、わかった。友人の言葉じゃ。それも、<全部がそうじゃ>なんちゅうこと、言うとりゃせんぞ。怒るな、怒るな」

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2009年6月 4日 (木)

惨国立病院・・嗚呼東京医療センター

1、三郎「30年ほど前に、親戚の人が国立病院に癌で入院したことがあるんじゃが、見舞いに行ったわしは、医者の発言の不親切さ、チャランプランさに驚いたことがあるぞ。<国立病院だと医者は公務員だ。・・わしゃ公務員だ・・ちゅう下らぬ奢りが、あるんかいのう?>と思うたもんじゃ。・・・さて今は、国立病院機構・東京医療センターとかいう長たらしい名前に変わっておる。<もう、下らぬ奢りはなくなっておるじゃろう>と思うて行ってみたぞ。レントゲン撮るのに注射器で造影剤を注入する。<それは医者じゃないといかん>ちゅうことか?研修医が来た。①20分余り待って・・わしゃ仰向けに静かに寝させられておった・・レントゲン撮影してくれた。その時じゃ、レントゲン技師が言うたぞ。『あっ、済みません、気が付きませんでした。注射器刺しっぱなしでした』とな。そうして、彼が注射器抜いて絆創膏貼ってくれたんじゃ」

2、六郎「ということは、その研修医は、造影剤注入した後、注射器抜かずに出て行った?。三郎さんは、仰向けに寝て、空の注射器を腕にぶら下げたまま20〰30分間レントゲン撮ってもらった?」 三郎「そうじゃ、そうじゃ。実害はなかったが、およそ考えられんことじゃろうが。わしゃ『さっきの研修医の名前は?』ちゅうて、レントゲン技師から聞いたぞ。某私立有名大学名とおんなじ姓じゃった。・・・まーそのまま穏便に過ごしたがのう!たるんどるんじゃ。<ひょっとしたら30年前とおんなじじゃないかい?>と思うたもんじゃ」

3、六郎「実害はなかったが、注射器抜き忘れるなんて・・、何か、<ミス多き病院。たるんだ病院>という印象はしますねー」 三郎「そうじゃろうが!対面した医者も、昔風・・不機嫌な応対・・じゃったし、わしゃいやになってきたんじゃ。かくして、わしゃ、外来へ行って、看護師に、<レントゲンのコピー下さい>ちゅうたんじゃ。そうしたら、ぶすっと、<1週間かかります>と言いおったぞ。・・・10日ほど前、わしゃ道端で転んで救急車で玉川病院に運び込まれて、5針縫うてもろうたんじゃ。その時脳のPC撮ってくれておったんじゃ。そこで、わしゃ、これのコピー貰うとけば、<脳の萎縮具合が分かる>と思うて、お医者に<PCのコピー下さい>ちゅうたんじゃ。そうしたら、医者がわしの傷口消毒しておるその間に、看護師さんが、さっさと、コピー取ってきてくれたんじゃ。・・・この違い。どうじゃ。玉川病院は即座に。東京医療センターは1週間じゃぞ」

3、三郎「まだあるぞ。今朝、1週間経ったから早朝に東京医療センターの外来に行ったんじゃ。わしゃ<エエ加減な病院じゃから、コピーもらえんかも知れんな。その時は雷を落として、明日までに用意してもらおう>と思いながら行ったんじゃ。さすがにコピーできておったが、<1階の会計で金払ってくれ>と言われて会計に行ったら、窓口嬢が、<お名前呼びますから>と言うたぞ。・・・それからじゃ、待てど暮らせど音沙汰なし。わしにしたらずいぶん気長に待ったぞ。じゃが、遂にたまりかねて窓口に行ったんじゃ。そしたら、別の女性が、あわてて屑籠から書類拾い上げて、<あのう、連絡が来ていなかったので>と言い訳したぞ。わしゃ<それはそちらの内部の問題だろうがっ>と一喝したんじゃ。ちょっと声が大きくなったのう。5メートル四方くらいには響いたかいのう?」 六郎「30年前と変わっていなかった?」 三郎「そうじゃ。組織の風潮ちゅうもんは、不変?かいのう?・・・わしゃ、ともかく東京医療センターには、今後一切行かんぞ」

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2009年6月 3日 (水)

6月2日の夕刊

1、三郎「6月2日の夕刊には相変わらず『大逆事件残照』が載っておる」 六郎「読んでみると驚きですね。大石誠之助という医者のことは前に聞きました。金持ちからは治療費を取るが、貧乏人にはタダ、という人情医者で社会主義的な思想の持ち主だった。それが理由で大逆事件で死刑になったんでしたね。それだけでも驚きですが、その大逆事件では、和歌山県熊野本宮町の成石平四郎(28歳)が、・・①大石と親しかった②魚捕りに使うつもりでダイナマイトを買った・・そんな理由でやはり死刑になっていた。更に、温和な村会議員だった勘三郎・・平四郎の兄・・も、一度は死刑宣告され、その翌日に減刑で終身刑になった(結局、<幸徳秋水・管野スガ・大石誠之助ら24名が死刑宣告され、翌日、内12名が終身刑に減刑された>、ということであった)。・・・・99年前(明治43年)の事とはいえ、そんなメチャクチャな話には正直驚きました」

2、三郎「それもそうだが、04年・・今から5年前・・に本宮町の町議会が<大逆事件犠牲者の名誉回復・顕彰宣言を全会一致で可決した>ということも驚きじゃ。大逆事件から94年後の名誉回復じゃ。一応民主主義の平穏な平成4年・・日本中の人間が、歴史なんか、まったく気にもかけずに、のんべんだらりの日々を過ごしておるという中で・・遅ればせの名誉回復じゃな。こりゃー、①あまりに遅過ぎるが、それでも、②94年間忘れられてはおらんかった。・・という二重の意味での驚きじゃ。地元本宮の人たちが、意外にも、大逆事件を忘れずにいたということについては、<いささかの救いはある>と言うてエエんかいのう!」 

3、六郎「約100年前、権力はまったくやりたい放題だったんですね」 三郎「ところで、同じ6月2日の夕刊には<昭和報道・テロの時代>という記事も載っておるぞ。昭和3年・・大逆事件から18年後、今から81年前・・、同じ和歌山県の和歌山市で弁護士らが惨殺されたちゅう話じゃ。斬り殺されたのは米崎久一郎・坂口啓一そのほかじゃ。斬り殺したのは右翼団体・国粋会員じゃ。昭和3年、日本で初めての普通選挙がおこなわれて、与党政友会は苦戦したんじゃ。和歌山では野党・民政党の中村啓次郎が当選したんじゃ。ところが、警察は、選挙違反の疑いで民政党の関係者を摘発したんじゃ。さっきの米埼久一郎は中村の選挙事務所の会計主任だった。和歌山署が選挙違反だとして米崎を逮捕したんだが、米崎は<その時拷問された>として、警察官を告訴した。米崎の代理人となった弁護士が坂口啓一郎だったんじゃ。そこで、国粋会の支部長らが米崎に告訴取り下げを要求したんだが、断られたんで、米崎・坂口らを斬り殺してしもうたんじゃ」

4、六郎「つまり、与党政友会・警察・国粋会側が野党民政党側の米崎・坂口らを斬り殺したんですね。つまり、昭和3年には、権力側がテロまでやったということですね」 三郎「そうじゃ。明治時代にも、自由民権・社会主義などの思想や行動はあったんじゃが、専制権力側(前に話した山県有朋とか平沼騏一郎とかに代表される権力側)は、これを弾圧し、その典型的な事件が明治43年のでっち上げ大逆事件だったんじゃ。それから大正時代に入ったんだが、大逆事件の大弾圧があっても、大正デモクラシーと言われるような思想は続いておったんじゃな。そして昭和へ。昭和3年には、やっぱり、権力・警察・右翼団体側が、野党や民権側に対して、テロという実力行使をした、ということなんじゃな。米埼・坂口ら斬殺事件がそれじゃな。この昭和3年と言えば、関東軍河本大作大佐による張作霖爆殺事件があり、3年後の昭和6年には満州事変が起こされたという、まさに、日本の専制・軍国主義時代だったんじゃ」

5、三郎「6月2日の夕刊の二つの記事には、はからずも、明治・大正・昭和初期における代表的専制・弾圧大事件・・歴史上繋がっている二つの大事件・・という意味があったんじゃな。・・・ところで、さっき、<昭和3年、日本で初めての普通選挙があった>と言うたが、それについて補足するぞ。・・・それまでは、男子で一定額以上の納税をした人間だけにしか、選挙権は与えられておらんかったんじゃ。これに対する国民の批判は強くなった。そこで、大正13年に、加藤高明首相は、国民に見放されるのを恐れて、普通選挙案を作ったんじゃ。それが大正14年3月、第50議会で可決された。実施は昭和3年からじゃ。勿論、女子には選挙権は与えられず、25歳以上の男子だけにしか与えられんかった。それでも、従来の有権者330万人弱から1240万人には増えたんじゃが・・・」

6、三郎「もうひとつ、付け加えておくが、大正13年の普通選挙法が通過した国会で、治安維持法も成立したんじゃ。この法律では取り締まり対象の定義が曖昧であったから、社会主義運動や労働・農民運動への取り締まりがうんと強化されたんじゃ。昭和20年の終戦まで、この法律は、権力側の強権発動に大きな根拠を与え、不当逮捕とか拷問などが行われたんじゃ。・・・権力は権力を維持するために、手段を選ばぬことがあるぞ。人間の性じゃ。ここでは『大逆事件』と『昭和3年テロ事件』だけが出てきたが、ほかにも、歴史事実はさまざまあるんじゃ」 六郎「ところで、ついこの間の『小沢秘書だけ逮捕事件(自民党議員にはおとがめなし事件)』もおんなじことでしょうか?・・民主党党首はそう言っていましたね。・・・もしもそうなら?ほんまに、『歴史は繰り返す』ですね。さっき≪昭和3年の普通選挙実施は、民の声を恐れたから実施されたんだ≫と聞きましたが、歴史の繰り返しを防ぐには、≪民の眼・民の声≫しかありませんね!」 三郎「さてのう!・・日本国民も、ほんまにノホホンとしておるからのう」

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2009年6月 1日 (月)

天声人語、エエぞエエぞ

1、三郎「今日は常識の話をしてやるぞ」 六郎「はて、あらたまって、何を?」 三郎「極く当たり前のことじゃ。あんたも充分知っておることじゃが、念のためにのう。・・・エエか?・・・<草=ソウ、木=モク、国=コク、家=カ>と<草=クサ、木=キ、国=クニ、家=イエ>じゃが、おんなじ漢字の読み方が違う。なんでじゃい?」 六郎「そんなこと・・・音読みと訓読みの違いじゃないですか」 三郎「遠く西暦200〰300年頃かいのう?百済から『論語』『千文字』などが日本に入ってきたと言われておるんじゃ。その頃から、長い間かけて、日本人は、漢字をただ読むだけじゃなくて、意味をあらわすような読み方をもするように工夫したんじゃな。これが訓読みじゃ。じゃが、『仁義』とか『国家『』などは、固有の日本語では訳しにくいから、中国式の発音そのままを我が国の言葉に取り入れたんじゃ。これが音読みじゃ」

2、三郎「漢字について、<音読み・訓読み>という、たったそれひとつをとってみても、我々の祖先の大変な努力の結晶じゃぞ」 六郎「そうでしょうね、私も小学校で音読み訓読み習って、何とはなしに使ってきましたが、言われてみればすごいことですね」 三郎「ところがじゃ、エエとこのボンボンで、有名大学を出た大人なのに、それが全くわからん御仁がおるんじゃ。何時も、<踏襲>を、堂々と<フシュウ>と読んでおったんじゃ。こりゃあ、想像を絶するこっちゃで。その御仁、多分、<生来注意力超散漫御仁>であり、かつ、<応用力皆無超石頭御仁>であるに違いないぞ」

3、三郎「その御仁、学校で<踏む=フム>も<踏襲=トウシュウ>も聞いた筈じゃ。じゃがな、<踏襲=トウシュウ>を習うた時は、ほかごと・・女性のことでも・・考えておって、全然耳に入らんかった(生来注意力超散漫)御仁じゃろうのう。しかも、その人、<踏む=フム>を知ってからは、<踏>という字はすべて<フと読むもんじゃ>と思いこんで、たとえ他の読み方を習うても、もはや覚えられぬ。全く頭脳が回転せぬ。・・(応用力皆無超石頭)御仁でもあるんじゃないかい?・・どちらにしても異常じゃ。リーダー的地位につくべき人材では無いわい。そんなことしたら、多くの人間に大不幸をもたらすぞ」 六郎「まったくそうですね。驚きですね。普通、小学六年生だったら、全員<踏襲>を<トウシュウ>と読みますよ。・・異常ですね。何とも・・くわばら、くわばら・・です」

4、三郎「とろでじゃ、昨日の新聞の『天声人語』に、ずばり、エエこと書いておったぞ」 六郎「ほほう!」 三郎「新聞紙は捨ててしまう。じゃから、『天声人語』の一部をここで話して、わしとあんた、互いの記憶にとどめておくことにするぞ。引用するぞ。『麻生首相が検討を命じた厚労省の分割再編が、自民党や閣内の異論で腰砕けとなった。具体化はお預けだ。唐突な指示から10日の空騒ぎ。ぶれたというより、ぶれる間もない幕切れである。▼首相は記者団にあっさり<最初からこだわってないと思います。話を作られると困るんで>と。またぞろ報道が先走ったかのごとき言い回しだ。迷走して転び、下手な強弁でまたこける。さて何度目だろう。▼族議員や官僚が抵抗する改革は、首相が腹をくくるしかない。ところが分割話にリーダーシップはない。かねての持論や信念ではなく、なにかと不評の役所をお白州に引き出し、喝采を浴びたかっただけではないか。・・・▼首相が口にするからには、風雪に耐えて旗を掲げ通す覚悟がいる。夕立の祭り提灯ではあるまいし、出したり引っ込めたりはいけない』」

5、六郎「いやいや、実に適切かつ明快。しかも、名文ですね!」 三郎「そうじゃのう!・・・あのな、例えば、衆議院解散権は首相の専権事項じゃ。首相の地位というものは、それほど重いものなんじゃ。なんちゅうたって、1億2千万国民の生殺与奪を握っておるんじゃから。・・・じゃのに、『こだわってない。話し作られると困る』と誤魔化す<この卑怯未練さ!>・・<定見も信念もないこの無能ブリ!軽さ!>・・・・わしゃのう、先日の党首討論を見たんじゃが、首相について一番印象に残ったのは、<相手が話しておる間中絶やさなかった下品極まるうすら笑い>じゃったぞ。『その<うすら笑い>とは、即ち、<①おのれの自信のなさの裏返したる嬌慢スタイル>と<②育ちからくる傲慢さ(上から目線)>の合作である』と見たぞ。・・・その御人は、国民が直接首相に選んだんじゃない。自民党が選んだんじゃ。50余年の権力独占からくる、<嬌慢・怠慢・利権・利己集団>が選んだんじゃ。国民が、それを平然と見過ごしておるんじゃから、つくずく、『日本国民は能天気(軽薄で向うみずな者)じゃのう!』と思わざるを得んのう」

6、三郎「さっき、<党首討論の時の麻生首相の下品な薄笑い>ということを言うたが、矢張りテレビで、2〰3日前に、同じような<下品な薄笑い>を見たんじゃ。全く別の話じゃがつけ加えておくぞ」 六郎「あのう・・、<下品な薄笑い>というのは、薄笑いそのものが下品なのか、それとも薄笑いしている人物が下品だったのか?、・・どっちでしょうか」 三郎「そうじゃのう・・、討論の時なんかに、にこやかにやる人物も確かにおるぞ。<下品な薄笑い>ちゅうのはそれとは違うんじゃ。<相手の発言中に、如何にも小ばかにしたような薄笑いを浮かべ続けておる>・・わしゃそのことを言うておるんじゃ。麻生首相がそれじゃった。それと、今の話の主人公は、慶応大学の権丈ちゅう教授じゃ。これも<相手を小ばかのしたようなうすら笑い>じゃったぞ」

7、三郎「権丈氏は慶応の教授じゃ。彼の専門領域は社会福祉、かのう?・・まあ、年金とか医療とか・・、福祉全般じゃろうのう・・。そこで、テレビで、自民・民主両党の幹事長やアナウンサーと討論しておったんじゃ」 六郎「その時に<下品なうすら笑い>を?」 三郎「そうじゃ。先ず、<俺は大学教授だ。理論家だ。幹事長ごとき、簡単に論破できるわい>ちゅううすら笑いじゃった。何十年ぶりに見る彼は、総白髪ながらふさふさしておった。年齢の頃は50過ぎじゃろうのう。嬌慢そのものじゃった。彼の人柄がにじみ出ておったぞ」

8、三郎「確かに、彼の言うことは一見理路整然としておった。口もスムーズに動いておった。・・じゃがな、彼の言う<年金論>の中には生きた庶民がおらんのじゃ。現実社会がないんじゃ。・・・これは、あの、小泉時代の竹中なにがし(現慶応教授)とまったくおんなじじゃ。わしゃ、そんな彼の顔に、<下品なうすら笑い>を見たんじゃ。党首討論の時の首相のうすら笑いは<自信のなさ+生まれからくる奢り>が原因じゃが、彼の場合は<無責任+無情+わしゃ理論に強いんじゃ意識>が原因じゃ。・・・世間には、政治討論に参加して、現実的議論のレベルを高める大学教授もおるぞ。ひとえに、人柄じゃ、正義感じゃ、思いやりじゃ。・・・『正義感なき学者、思いやり無き学者』・・・そんなもん、社会の為に、ナーンもならんわい。学問は、特に社会科学は、実践の為にあるんじゃ。・・・わしゃ、あらためてそう感じたぞ」

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