1、三郎「昨日の朝日新聞の夕刊に、<ノモンハンの記憶、5>というのを見つけた。<5、>とあるのだから連載だったのに、わしゃ見落しておった。もう新聞は捨てた。残念じゃ。あんた、ノモンハン事件、を知っておるかい?」 六郎「いえ、知りません」 三郎「50歳半ばのあんたは、昭和30年前後の生まれじゃな、無理無いのう!・・たとえ、学校で近現代史を教えたとしても、この事件のことは、飛ばされてしまうだろうのう!・・・わしゃ、当時小学校3〰4年生じゃから、まさに現在進行形の、この出来事を聞いておったぞ。当時はラジオじゃな。新聞でも見たことはある。昭和14年じゃ。そのすぐ前(前年?)にあった張鼓峰(チョウコホウ)事件というのも覚えておるぞ」
2、三郎「ノモンハン事件の2年前に、既に日中戦争がはじまっておった・・最初は北支事変と言うた。ノモンハン事件の2年後に太平洋戦争がはじまった。これも・・昔は大東亜戦争じゃった。さて、そこでじゃ。日中戦争・太平洋戦争などは歴史で必ず語られるんじゃが、わしとしては、むしろ、ノモンハン事件のほうが、強く、心に残っておるんじゃ」 六郎「はて?それはなぜ?」 三郎「なんでかのう?・・わしゃ、①<当時、なんでこの時期に、また、ノモンハンでも戦争を?と、子供心に思うた>もんじゃ。チビの直感じゃな・・それともう一つ、②<今から20年程前に、わしが近現代史をあらためてひもといた時に、・・ノモンハン事件の2年後に、なんで太平洋戦争に突入したんじゃい・・?、という怒りがこみ上げてきた>んじゃ。この①②が原因で、わしのノモンハン事件に対する印象は極めて強いんじゃ。偉そうなことを言えば、<歴史を読み解く一つの手がかり>なんじゃ」 六郎「それは、それは、聞かせてほしいものですね」
3、三郎「あ、そう、そう、あの司馬遼太郎さんは、ノモンハン事件について詳細に調べたそうじゃ。勿論書くつもりでのう。じゃが、とうとう、筆を取らぬママに亡くなったんじゃ。わしゃ、そのことを3〰4年前に知ったんじゃが、その時、司馬さんの心がわかるような気がしたんじゃ。その後、司馬さんが『調べて行けばいくほど空しくなってきましてね』と、理由を語った、と聞いたぞ。わしゃ、<やっぱりな!>と思うたんじゃ」 六郎「はて、思わせぶりな??」 三郎「<ノモンハン事件にたずさわった帝国陸軍エリート軍人などの、あまりの愚かさ>、が司馬さんに、空しさをもたらしたんじゃ。<ノモンハン事件の前後にわたる10数年間の、あまりの愚かさ>じゃがな!。<何千万の日本国民を奈落の底に突き落とした、取り返しのつかなぬ愚かさ>じゃ」
4、三郎「前置きが長すぎた。ノモンハン事件は関東軍とソ連軍との戦いであった。そこで、昨日の新聞記事じゃが<5>だったから、戦後の話だけじゃった。まず、それを話すぞ。・・・・・昭和14年9月と翌年4月の2回、日本側とソ連側の捕虜がそれぞれ交換され、日本側は204人が戻った。・・・捕虜交換で戻った兵士らは陸軍の取り調べを受けた。短銃を渡され、自殺を強要された将校もいたという。軍は昭和14年9月30日付の通達で、元捕虜が軍法会議で無罪になっても、<厳重なる懲罰処分を行う>とし、処分後は日本以外の地で生活をさせるように指示している。・・ノモンハンの戦況または捕虜の件については<たとえ、親兄弟といえども口外するな>と指導された。結婚してソ連で暮らすよう迫られたが<郷里の母に会いたい>と拒み続けて帰還できた者もいた。現地に残ったままの捕虜もいたと言われている。・・・ノモンハン事件から2年後、東条英機陸軍大臣は<生きて虜囚の辱めを受けず>とする戦陣訓を定め、太平洋戦争に突き進んだ・・・・・ということじゃ。これが新聞記事じゃ」
5、六郎「戦陣訓以前から、日本軍は<捕虜を許さず>ということだった?」 三郎「そういう雰囲気だったんじゃな。外国の軍隊とは違っていた。そこへ東条陸相が明文的に決めつけた。外国の軍隊は、<もはやこれまで>と思ったら手を挙げて降伏する。東条陸相は、<そんなこと絶対に許さん>と、あらためて書いて、全軍に伝達した。<日本軍の強みは士気にある>という精神主義じゃな。そこで、この間話してやった事を思い出せ」 六郎「ああ、昭和15年11月、つまり、<ノモンハン事件の翌年、太平洋戦争の前年>、の話ですね。東条陸相は部下に命じて日米戦力比較資料を作らせた。結果は絶望的であった。その時東条陸相は<帝国には3千年の国体がある。皇軍の士気がある・・・>と言った。翌年東条首相は太平洋戦争に突入した」 三郎「これが帝国陸軍の風潮であった事は確かだ。その中でも、東条首相は、それの典型であった。彼はまた、典型的な天皇崇拝主義者でもあった。そして、天皇の心配は、常に日本国民の安全のことであった。にもかかわらず、東条は日本国民の安全をきわめて軽視した。じゃから、東条は大不忠者じゃ。・・これからノモンハン事件の話をするが、その東条と似た人物が何人か出てくるぞ。そればかりじゃない。今日ただ今の日本の政治家に・・特に与党の政治家や官僚や自衛隊幹部にも、東条的人物が少なからず居るのではないか?・・ということは極めて重大な問題じゃ。<歴史から学ぶ、どころか、歴史は繰り返しそう>なんだ。・・・」
6、三郎「ノモンハン事件は昭和14年のことだが、その前後の状態を簡単に話して置くぞ。・・・昭和6年満州事変、昭和7年満州国建設。昭和12年日中戦争(当時は北支事変)開始。また、ノモンハン事件2年後の昭和16年には太平洋戦争(当時は大東亜戦争)に突入した。・・・だから昭和14年当時、中国に24個師団(50万人)、満州・朝鮮に11個師団(20万人余)出していた。・・朝鮮は明治43年に日本が併合していた。満州国は一応独立国だが実質は日本の傀儡国で、その警備は関東軍が受けもっていたんだ。・・・ともかくノモンハン事件開始時、既にこれだけ兵力を出していたんだから、これ以上の兵力増強は大変困難であった。武器・弾薬・食料も大変だし、兵士はだんだん高年齢化の徴兵ということになってゆく。・・・そんな時のノモンハン事件なんだ。本来ならそんな事件は避けるべきじゃ。・・・ところで、満州国は4000キロの長大な国境線を有し、その向こうには強大な極東ソ連軍がいた。その頃の満州・朝鮮の日本軍11個師団に対してソ連軍は30個師団、日本軍の戦車200輌に対してソ連軍2200輌、飛行機は日本560機対ソ連2500機であった」
7、六郎「圧倒的なソ連の脅威?」 三郎「そうじゃ。そんな中で、中国戦線は泥沼に入り、引くに引けない有様となって行った。日中戦争は、昭和12年7月7日の盧溝橋事件で始まったが、7月30日北平・天津占領、12月30日南京占領、翌昭和13年5月19日徐州占領、10月27日武漢(武昌・漢口・漢陽の3都市)占領、と、最初は一見連戦連勝に見えたが、中国政府は奥地重慶に逃げ込み、日本軍が追い切れない状態で、昭和16年12月8日、太平洋戦争に突入したのだ。翌昭和17年暮れ、大本営は重慶政府への攻撃を中止することを決定せざるを得なかった。日本軍の主力は南方にシフトし、中国戦線ではかろうじて維持を図るだけとなった。これが昭和20年8月15日の終戦まで続いた」
8、三郎「日中戦争について、ひとつ付け加えておくぞ。昭和12年暮れに首都南京が陥落した後、日中和平工作がいくつか行われていた。中でもドイツ大使トラウトマンの仲介によるものに、参謀本部も乗り気だった。ところが、近衛文麿首相が強気で、『国民政府を相手にせず』という声明を出してぶち壊した。昭和13年1月16日のことだ。この<ボンボン・嬌慢・無能・無責任首相>の行動なかりせば、日本のその後の悲劇は、あるいは防げたかもしれん。軽減できたかもしれん。半藤一利氏によれば、その頃、・・近衛『彼らを相手にせずと宣言したものの、蒋介石が和平をいってきたらどうしたものか』小川(平吉)『そんなことは何でもないよ』近衛『そうだな、その時にはまた方針を変えればいい』・・という会話がなされたそうじゃ。今日も・・似たようなチャランプラン首相がおるようじゃぞ。首相の資質は全国民の運命を決するものじゃのにのう」
9、六郎「そんな緊迫した中で、<ノモンハン事件>という戦い迄やったんですか?」 三郎「そうじゃ。もう一度言うぞ、昭和12年から昭和20年までの8年間の日中戦争、その内昭和16年〰20年は太平洋戦争も・・・ということじゃが、分かりやすく言えば、日本は、昭和12年7月7日〰昭和16年12月7日の間中国と戦争、昭和16年12月8日〰昭和20年8月15日の間は、アメリカ・イギリス・オランダ・中国連合軍を相手に戦ったんじゃ。更に、この最後の頃には、ソ連軍も攻撃してきたんじゃ」 六郎「5か国相手、なんと、なんと!」 三郎「そんな大変な時代に、昭和14年の5月4日〰9月6日の4カ月日間、ノモンハンでまで激戦をやった」
10、三郎「そのノモンハンは、満州国の西北、モンゴル(外蒙古)との国境地区にある地名だ。そうして関東軍は、その地域を流れるハルハ河を国境線と考え、モンゴル側はハルハ河の東方13キロあたりを南北に走る線を国境線と考えていた。昭和14年5月4日、双方の認識が違う国境線付近で、満州国軍とモンゴル軍の間に小競り合いが始まった。それは即関東軍対ソ連軍の戦いになる。関東軍の参謀たちは、さっき言った彼我の戦力対比の数字を知っていたにもかかわらず、自国の軍事力への過信とソ連軍事力への過小評価を持ち続けていた。<兵器うんぬんなどよりも、士気の如何だ>という東条英樹とおんなじような考えは、日本軍共通のものだったんだろうなー。根底には、遠い昔の日露戦争の勝利があったのかもしれない」
11、三郎「一例を話すぞ。・・当時、日本軍の対戦車砲はソ連軍のT-34戦車に歯が立たず、一方、日本軍の戦車は、ソ連軍の砲によって簡単に射抜かれた。明らかに装備近代化の遅れだ。モスクワの日本大使館に勤務する駐在武官たちは、正確にソ連軍戦車の性能を東京に報告していた。しかし、そういう武官は、冷遇されて出世できなかった。まさにボール紙のような装甲の日本軍戦車が、ノモンハンの草原で鉄の棺になったんじゃ。日本軍幹部の意識の低さじゃ。精神主義偏重じゃ」
12、三郎「4ヶ月間、関東軍・ソ連軍間で激烈な戦いが行われた。特徴は、ソ連軍が戦車や大口径砲や飛行機をつぎ込み、潤沢な補給をしたのに対して、関東軍は手持ちの銃や剣を主体とした白兵戦をしかけた。『半藤一利著昭和史』によれば、<日本側は58、925人出動、戦死7720人、戦傷8664人その他を含めた損害数が19768人。それを出動人数で割れば、33%余の損害になる。普通30%で壊滅といわれる><中でも第23師団では、2万人のうち70%が死傷した><ソ連軍・蒙古軍も24、992人死傷>だそうだから日本軍の方が損害数はむしろ少ないのだが、<戦後、戦争の発端になった国境問題は相手の言う通りになった。つまり敗北だ。日本軍側の連隊長など指揮官5人が責任を取って自決し、1人が惨殺さる>ということであった」
13、三郎「事件後の軍の反省では<国軍伝統の精神威力をますます拡充するとともに低水準にある火力戦能力を速やかに向上せしむるべき>とある。問題の中心は勿論後者にある。前年の張鼓峰事件で体験し、ノモンハンで苦い経験を重ねた。が、それでも、対策が間に合わなかった。あるいは、まだまだ精神主義から抜けきれない幹部がいたんじゃな。かくして、無謀にも2年後には、ソ連軍以上に機械化している米軍に、いわば、素手で戦いを挑んだんじゃな。その裏には、尽忠報国=人命軽視(人権無視)が連綿と続いておったんじゃ」
14、三郎「<機械化軍に立ち向かう日本軍将兵の戦いがいかに凄惨なもだったか>想像に難くない。これだから『捕虜になることを許さず』として士気を鼓舞しないといけなかったんだ。さっきも言ったが、1年前(昭和13年7月)には、朝鮮半島東北端で、日本軍1個師団とソ連軍2個師団が戦い、ソ連機械化軍に向かって行った日本軍は大損害をこうむっていた(張鼓峰事件)。ノモンハンで同じことを繰り返したんじゃ」 六郎「中国戦線の膠着(50万人の投入)という中で、更には、張鼓峰での苦い経験の中で、また、ノモンハンで戦ったんですか?信じられません」
15、三郎「それだけではないぞ、その頃、つまり昭和14年は、日本は日独伊三国同盟を結ぶか否か・・それによっては英米と敵対することになる・・の岐路に立っていた。だから、東京の陸軍参謀本部が満ソ国境紛争に関して、<侵されても侵さない。紛争には不拡大で>という方針を関東軍に示していたのは、当然のことじゃ。ところが、服部卓四郎中佐・辻政信少佐そのほかの関東軍参謀部の連中は、中央の指示などは意に介せずに、ノモンハン事件を拡大したんだ。事件後、司令官たちは責任を取らされたが、服部・辻らは一時左遷されたものの、やがて参謀本部に戻されて、2年半後の太平洋戦争を推進したんだ。張鼓峰事件やノモンハン事件の経験・・特に軍近代化が大きく遅れていて、精神力とか士気に頼るしかない、という経験・・を、彼らは何の参考にもしなかった。わずか2年半後に太平洋戦争に突入し、服部・辻らが重要作戦を指導して、同じように多数の将兵を、米軍の重装備に立ち向かわせた。あまりにも愚かじゃ。しかも、彼ら陸軍が政治を牛耳って、戦争に向かわせたんじゃ」
16、三郎「昭和19年7月にサイパンが陥落して日本の敗色が濃厚になった時に、参謀本部作戦課長・服部卓四郎大佐が、<サイパンの戦闘でわが陸軍の装備の悪いことがほんとうによくわかったが、今から取り掛かってももう間に合わない>と言った。張鼓峰事件もノモンハン事件も充分に体験した彼が・・である。それらの体験からすれば、身を呈して対米開戦を阻止すべきであった。服部参謀、辻参謀・・・は、まさに低能小学生にも及ばぬ判断力の男、世にも稀なる鉄面皮男じゃな。日本の過去には、政治家にも軍人にも、こんな低次元男がうじゃうじゃおった。・・・いや、過去だけじゃない。今も・・・、じゃ」 六郎「司馬遼太郎氏が、遂に、ノモンハン事件を書かなかった、のは、やっぱり、<あまりに愚かしくて>・・・ということでしょうかね!」
17、三郎「ノモンハン事件・・こりゃあノモンハン戦争というべきじゃが、日本が対外関係で緊張状態にあった時に、満州国北西部ホロンバイル高原という草地について、<国境線が15キロ程東か西か?>ちゅう、それだけの問題でゴジャゴジャして戦争をはじめた。日本将兵はソ連軍の重火器や戦車砲や爆弾に素手で立ち向かった。20、000人近くの私傷病者を出した。・・いや死者だけで18、000人という説すらある。それぞれに家族があるのに・・・。前にも言うたように、日中戦争は泥沼の中にあった・・。張鼓峰事件だけで対重装備軍戦争は充分実感できた。それなのにノモンハン戦争と太平洋戦争を・・・。その推進の中心者は、陸軍大学を優秀な成績?で出て参謀になった、おんなじ人間たちだった。・・その中の一人は、太平洋戦争終戦後に国会議員になったりした・・・。こんなばかばかしいことが、日本の歴史には、多過ぎる。・・・何時も、<素手で砲弾に立ち向かわされる若者たち>の<取り返しのつかぬ短い人生>があったんだ・・・・・今後絶対にこんなことさせてはならんぞ。じゃが、・・ありうるぞ。自衛隊が野放図に海外に出されたらどうなるか?米軍に協力して戦わされたらどうなるか?・・・現自民党政権のようなものは、それを、簡単にやりかねないぞ。まさに、張鼓峰事件・ノモンハン事件・太平洋戦争の再来じゃ・・・」