新聞を読んで
1、三郎「朝日新聞はここのところ、夕刊で歴史物を続けて取り上げておる。例えば、5月22日の『人・脈・記・大逆事件残照4』じゃ。大逆事件は明治43年の出来事だ。明治43年といえば、韓国併合もあった年じゃな。韓国併合については、トンデモない説を唱える御仁がおったから、わしが、あんたに、やや詳しく説明してやったんだったな」 六郎「うかがいました。うかがいました。稚拙極まる珍説や、おかしなナショナリズムに基づく暴論が多いということがよく分かりました。しかもそれを、元防衛省高官や大学名誉教授などという肩書の御仁がやるんですから、油断も隙もありませんね。・・今度もしっかりうかがいますよ」
2、三郎「歴史ちゅうもんはな、過去の、人間や、その集団や、権力握った人間や・・、そんなさまざまな人間の行動パターンの集積じゃ。自然科学は進歩しても、人間の本質は不変じゃ。だから、歴史は、現在や未来の人間行動を予測するのに役立つんじゃ。歴史は人間の愚かさをも知らしめてくれるんじゃ。まともに学べば、過ちの繰り返しを防げるかも知れんのじゃ。・・じゃがのう、何時になっても、無反省極まる人間や、悪い意味のナショナリズムに取りつかれた傲慢人間がおるもんじゃ。さっきあんたが例にあげた有名人などがそうじゃ。そういう人間が再びわしらの子供や孫を不幸のどん底に突き落とすことは充分にありうることなんじゃ。・・じゃから、《庶民よ、自ら歴史を正しく学んで、有名人の愚論・暴論に立ち向かえよ。それこそ、子供・孫に対するあんたらの責務じゃ、愛情じゃ》と言いたいんじゃ。孫を猫かわいがりするのもエエが、それだけじゃ、本当の<いいおじいちゃん・おばあちゃん>じゃないぞ。本当の愛情があるなら、もっと大きく、子供・孫を守らんならんのじゃ」
3、三郎「・・・それでは新聞記事に戻って、大逆事件の話をしてやる。5月22日の夕刊に、大石誠之助ちゅう人のことが載っておる。あんたこの人、知っておるかい?」 六郎「いえいえ、初耳です」 三郎「そうじゃろうのう。わしも、おそらく、この人名を読んだことはあるだろうが、まったく記憶にない。歴史の主役じゃなかったんだ。だからこそ、わしゃ、あらためて興味を覚えるんじゃ。大石誠之助も、明治44年1月24日午後2時23分、死刑になって絶命した。死ぬ前に『<冗談から駒が出る>ということわざがあるが、この事件はまさにそうだ』と言い、泰然自若として絞首台に上ったそうだ。享年43。和歌山県新宮の医者だった。新聞によれば、明治半ばにアメリカの大学で医者になり、インドに留学、都々逸や狂歌を楽しみ、診療して金持ちからは金をとっても、貧乏人はタダ、<毒取る(ドクトル)大石>と慕われたそうだ」 六郎「そんなやさしい医者がなぜ死刑に?」
4、三郎「それが大逆事件の本質じゃ。続けて新聞から引用するぞ。明治41年の暮れ、大石は上京し、社会主義者幸徳秋水らと歓談した。『世の中を一夜にして変える方法はないか?』『爆弾はどうだろう』『そんな線香花火はだめだ』『身を捨てて働く青年50人がいれば』・・などという話をして別れたそうだ。これが大逆事件として死刑の理由になったんじゃ」 六郎「分かりませんね。どうして?」 三郎「分かるはずないわい。改めて大逆事件の話をしてやらんならんわい。新聞にはこうも書いておる。『その頃、佐藤春夫は<・・教師らは国の歴史を更にまた説けよ・・>と書いた』『いま、新宮には<大逆事件の犠牲者を顕彰する会>ができて、街なかに<志を継ぐ>という碑をたてた。大石を名誉市民に推す動きもある』とな。・・・じゃがな、この最後の方、・・<碑を立てる>とか、<名誉市民に推す>・・なんかについては、『とんでもない』と言う人間が出そうな・・、今また、そんな時代になりかけておるんじゃ。まさに歴史は、繰り返しかけておるんじゃ。・・・じゃから、大逆事件をはじめから話してやらんならんのじゃ。まさに、佐藤春夫の言う如く、<国の歴史をまた説けよ>なんじゃ」
5、三郎「日本は明治維新から20年経つか経たぬかで、帝国主義国家になった。当時のイギリス・フランス・ドイツ・アメリカみたいに・・。主導したのは山県有朋。政治家・官僚の多くや国民もそれに追随した。山県は、外に帝国主義・・主権線(領地)の外に向かって利益線(朝鮮とか満州とか周辺国)を確保しなければならぬ・・というて、日清戦争(明治27・8年)や日露戦争(明治37・8年)の前から後まで、高税率・軍備拡張を図った。山県は、また、内には、自由民権や社会主義を圧迫し、専制国家を実現した。明治の終わり頃、その帝国主義専制国家ぶりの象徴として、<韓国併合>と<大逆事件>とがある。いずれも明治43年の出来事じゃ」 六郎「なるほど、なるほど。明治が理解できました」
6、三郎「そんな明治時代にも、当然自由民権思想・社会主義・キリスト教・小国主義などの思想があったんだが、それを官権は弾圧し続けたんじゃな。そんな中で①明治42年11月3日、社会主義思想を持つ宮下太吉(当時33歳?)が長野県明科付近で手製の爆弾を破裂実験した。②明治43年1月23日、管野スガ・新村忠雄・古河力作が集まって、宮下の作った爆弾で、天皇誕生日(11月3日)前後を目途にして、天皇を襲う話をし、襲う際の宮下を含む4人の分担を、あみだくじで決めたりした。宮下太吉が一番過激だったようだが、4人全部の本気度も定かでない。③明治43年5月下旬、宮下太吉逮捕に始まり、全国的な逮捕劇が始まった。先述の4人を含めて被逮捕者は26人に及んだんじゃ」
7、六郎「26人も?・・全部が天皇襲撃計画の共謀者?」 三郎「とんでもないよ。残り22人は加わっておらぬ。なかに、そんな噂を聞いたことがある人間がいたかも知れんが、本気にしていなかったり、<そんなこと、とんでもない>と思っていた者たちじゃな」 六郎「とすれば、ものすごいでっちあげ??」
8、三郎「そうじゃ、だからこそ、大逆事件は、日本の歴史に残る<大でっち上げ事件>なんじゃ。<でっち上げ、乃至、意図的政治的権力行使>ちゅうもんは、世界の歴史上数え切れんが、なかでもこの大逆事件は、<超々典型的なもの>なんじゃぞ。・・・最近の小沢秘書逮捕事件じゃって、<意図的政治的権力行使の一種だ>と見られておるが、これなんぞは<超々小型大逆事件>じゃなー!。じゃがなー、いかに小さいものであっても、平素のチェックを怠っておると、やがて悪質化・巨大化するもんじゃ。・・・要注意じゃぞ」
9、三郎「大逆事件はなー、被告26人ちゅう大事件じゃのに、予審の終結から初公判までわずか一か月だった。訴訟記録は17冊に分けられた約7000頁のガリ版刷りで、積み上げると身長に達するというもんじゃった。これじゃあ、弁護士はたまらんわなー。この事件の裏には、前に話したことのある<侵略専制主義者・山県有朋がいた>と言われておるし、現に司法省刑事局長・平沼騏一郎は、この頃、『一人の無政府主義者もなきことを、世界に誇るに至るまで、あくまでも撲滅を期する』ちゅうとる。無政府主義者も社会主義者も、山県有朋や平沼騏一郎にとっては<おんなじもん>じゃったはずじゃ」
10、三郎「わしゃ『佐木隆三著・小説大逆事件』そのほかを参考にしておるが、この佐木氏は『石川啄木や徳富蘆花らが鋭く察知したように、大逆事件は、歴史の大きな曲がり角、支配層が後戻りのできない道を選択してしまったことの、ひとつのあらわれだった』と書いておる。<山県・平沼らも、日本を専制国家に導いて、太平洋戦争にまで至り、極めて多数の日本国民を奈落の底に陥れる役割を演じた責任者である>と、言うことができる」
11、三郎「後は大逆事件に関する雑談にするぞ。A、気に食わぬ社会主義者たちを、なんとかして被告に仕たて上げて、抹殺しようとしたのだから、26人逮捕劇は日本全国に及び、警察検察を総動員した。・・(佐木引用)『司法省刑事局長(大審院検事兼務)の平沼騏一郎は、第一線の検事たちに檄を飛ばした。《どうみても、幸徳秋水が首謀者だ。そうであればこそ、供述拒否をしているのだが、幸徳は当代一流の弁護士たちと親しくしており、ムリに口を割らせると面倒なことになる。こうなったら、外堀を埋めていこう。明治42年11月19日、巣鴨の平民社で、幸徳秋水、大石誠之助、森近運平の3人が幹部会をひらいて、今回の陰謀が成立したことに間違いない》こうして捜査本部は、和歌山県の大石と、岡山県の森近について予審審議(起訴)し、事件の拡大をはかったのである』・・」
12、六郎「大石とは、さっき聞いた人情ドクターのことですね?」 三郎「朝日新聞5月22日夕刊には『7月、高知・中村にいた秋水が急きょ上京、その途上、新宮に立ち寄る。大石は一夕、熊野川に船を出して秋水とエビとりに興じた』とある。付き合いのあった秋水や大石が会って、遊んだり社会のことを論じるのは当然じゃが、おそらく平沼検事たちは、それを陰謀成立に仕立てたんじゃな。秋水については、管野スガそのほか、みんなが、<実力行使には向かない人間>と見ていたことは明らかだ。・・ただ、幸徳秋水は、理論的指導者だったから、山県や平沼が<何が何でも秋水を首謀者にしないといけない>と考えていたことは間違いあるまい。人情医者でクリスチャンで、幸徳秋水らに時々カンパもしていた、そんな大石誠之も、死刑になった」
13、三郎「獄中で大石は『貧者、弱者に哀れを感じたのは私のセンチメンタリズムだったかもしれない。柄にもない大役で世間を騒がせて実にすまぬ気がする』と述べている。刑死1日前の奥宮健之は『どうも世の中にはふしぎなことがありがちのようです。私が死刑の宣告を受けるとは、ちょっと自分で妙な感じがする。こういうこともあるんですかねえ』・・・二人とも、自分に向けられた夢想だにしない逮捕・死刑宣告劇に対する<驚き・あきれ>を抑えた言葉で表している」
14、六郎「判決は?」 三郎「被告26人。予審終結から初公判まで、わずか一か月。公判開始は明治43年12月10日。判決は明治44年1月18日。審議はわずか40日弱。死刑は、幸徳秋水・管野スガ・宮下太吉・新村忠雄・古河力作・大石誠之助その他で24名・懲役刑が2名。翌19日、24名の死刑囚のうち12名を特赦で無期懲役に。・・すべて、<お手盛り審議・ドタバタ判決>であった。その上、処刑は判決6日後の24日に11名。25日に1名(管野スガ)であった。佐木氏は大逆事件について『石川啄木の言う<時代閉塞の時代>のなかで、ことごとく言論を封じられた者たちが、仲間内の放談で憂さ晴らしをして、空想的なテロ計画を口にしたことが、<皇室に対する罪>に擬せられてしまった』と書いている。・・・だが、前述通り、これで山県・平沼ら専制膨張主義者らはその目的を達し、大正・昭和と続く日本国民の不幸が始まったのじゃぞ。・・もう一度言うが、『山県・平沼は平成の今も存在している。常に、彼らの行動の芽を摘み続けねばならぬ』・・大逆事件と同じ明治43年に起こった韓国併合を、<会社合併並みだ>と言い、昭和6年に始まる満州事変・満州国建設を、<極めて正当な行為だ>と言う。《内に専制・外に膨張》・・・これは何時の時代にも連動しておるんじゃぞ」
15、三郎「さっき言うた大逆事件で、でっち上げ冤罪で殺された大石誠之助は与謝野鉄幹とも親しかった。鉄幹は『誠之助の死』という詩を書いた。『大石誠之助は死にました。いい気味な。機械に挟まれて死にました。・・誠之助と誠之助の一味が死んだので、忠良な日本人は之から気楽に寝られます、おめでたう』・・・、<機械に挟まれて死んだ・・・>それ以上に悲しい死だ。<忠良な日本人>を<山県とか平沼>に置き換えればよく分かる。・・・石川啄木は<大逆事件は権力のでっち上げだ>と直感した。<無政府主義者は性急な理想家>と書いた。啄木は明治45年(大正元年)に26歳で死んだ。<冷めたるココアのひと匙を啜りて・・・・われは知る、テロリストのかなしき、かなしき心を>と詠んでいた。・・・大石誠之助に一日遅れて処刑された管野スガは、与謝野晶子が大好きだった。<紫式部より一葉よりも>好きだった」
| 固定リンク | コメント (0) | トラックバック (0)

