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2009年5月

2009年5月26日 (火)

新聞を読んで

1、三郎「朝日新聞はここのところ、夕刊で歴史物を続けて取り上げておる。例えば、5月22日の『人・脈・記・大逆事件残照4』じゃ。大逆事件は明治43年の出来事だ。明治43年といえば、韓国併合もあった年じゃな。韓国併合については、トンデモない説を唱える御仁がおったから、わしが、あんたに、やや詳しく説明してやったんだったな」 六郎「うかがいました。うかがいました。稚拙極まる珍説や、おかしなナショナリズムに基づく暴論が多いということがよく分かりました。しかもそれを、元防衛省高官や大学名誉教授などという肩書の御仁がやるんですから、油断も隙もありませんね。・・今度もしっかりうかがいますよ」

2、三郎「歴史ちゅうもんはな、過去の、人間や、その集団や、権力握った人間や・・、そんなさまざまな人間の行動パターンの集積じゃ。自然科学は進歩しても、人間の本質は不変じゃ。だから、歴史は、現在や未来の人間行動を予測するのに役立つんじゃ。歴史は人間の愚かさをも知らしめてくれるんじゃ。まともに学べば、過ちの繰り返しを防げるかも知れんのじゃ。・・じゃがのう、何時になっても、無反省極まる人間や、悪い意味のナショナリズムに取りつかれた傲慢人間がおるもんじゃ。さっきあんたが例にあげた有名人などがそうじゃ。そういう人間が再びわしらの子供や孫を不幸のどん底に突き落とすことは充分にありうることなんじゃ。・・じゃから、《庶民よ、自ら歴史を正しく学んで、有名人の愚論・暴論に立ち向かえよ。それこそ、子供・孫に対するあんたらの責務じゃ、愛情じゃ》と言いたいんじゃ。孫を猫かわいがりするのもエエが、それだけじゃ、本当の<いいおじいちゃん・おばあちゃん>じゃないぞ。本当の愛情があるなら、もっと大きく、子供・孫を守らんならんのじゃ」

3、三郎「・・・それでは新聞記事に戻って、大逆事件の話をしてやる。5月22日の夕刊に、大石誠之助ちゅう人のことが載っておる。あんたこの人、知っておるかい?」 六郎「いえいえ、初耳です」 三郎「そうじゃろうのう。わしも、おそらく、この人名を読んだことはあるだろうが、まったく記憶にない。歴史の主役じゃなかったんだ。だからこそ、わしゃ、あらためて興味を覚えるんじゃ。大石誠之助も、明治44年1月24日午後2時23分、死刑になって絶命した。死ぬ前に『<冗談から駒が出る>ということわざがあるが、この事件はまさにそうだ』と言い、泰然自若として絞首台に上ったそうだ。享年43。和歌山県新宮の医者だった。新聞によれば、明治半ばにアメリカの大学で医者になり、インドに留学、都々逸や狂歌を楽しみ、診療して金持ちからは金をとっても、貧乏人はタダ、<毒取る(ドクトル)大石>と慕われたそうだ」 六郎「そんなやさしい医者がなぜ死刑に?」

4、三郎「それが大逆事件の本質じゃ。続けて新聞から引用するぞ。明治41年の暮れ、大石は上京し、社会主義者幸徳秋水らと歓談した。『世の中を一夜にして変える方法はないか?』『爆弾はどうだろう』『そんな線香花火はだめだ』『身を捨てて働く青年50人がいれば』・・などという話をして別れたそうだ。これが大逆事件として死刑の理由になったんじゃ」 六郎「分かりませんね。どうして?」 三郎「分かるはずないわい。改めて大逆事件の話をしてやらんならんわい。新聞にはこうも書いておる。『その頃、佐藤春夫は<・・教師らは国の歴史を更にまた説けよ・・>と書いた』『いま、新宮には<大逆事件の犠牲者を顕彰する会>ができて、街なかに<志を継ぐ>という碑をたてた。大石を名誉市民に推す動きもある』とな。・・・じゃがな、この最後の方、・・<碑を立てる>とか、<名誉市民に推す>・・なんかについては、『とんでもない』と言う人間が出そうな・・、今また、そんな時代になりかけておるんじゃ。まさに歴史は、繰り返しかけておるんじゃ。・・・じゃから、大逆事件をはじめから話してやらんならんのじゃ。まさに、佐藤春夫の言う如く、<国の歴史をまた説けよ>なんじゃ」

5、三郎「日本は明治維新から20年経つか経たぬかで、帝国主義国家になった。当時のイギリス・フランス・ドイツ・アメリカみたいに・・。主導したのは山県有朋。政治家・官僚の多くや国民もそれに追随した。山県は、外に帝国主義・・主権線(領地)の外に向かって利益線(朝鮮とか満州とか周辺国)を確保しなければならぬ・・というて、日清戦争(明治27・8年)や日露戦争(明治37・8年)の前から後まで、高税率・軍備拡張を図った。山県は、また、内には、自由民権や社会主義を圧迫し、専制国家を実現した。明治の終わり頃、その帝国主義専制国家ぶりの象徴として、<韓国併合>と<大逆事件>とがある。いずれも明治43年の出来事じゃ」 六郎「なるほど、なるほど。明治が理解できました」

6、三郎「そんな明治時代にも、当然自由民権思想・社会主義・キリスト教・小国主義などの思想があったんだが、それを官権は弾圧し続けたんじゃな。そんな中で①明治42年11月3日、社会主義思想を持つ宮下太吉(当時33歳?)が長野県明科付近で手製の爆弾を破裂実験した。②明治43年1月23日、管野スガ・新村忠雄・古河力作が集まって、宮下の作った爆弾で、天皇誕生日(11月3日)前後を目途にして、天皇を襲う話をし、襲う際の宮下を含む4人の分担を、あみだくじで決めたりした。宮下太吉が一番過激だったようだが、4人全部の本気度も定かでない。③明治43年5月下旬、宮下太吉逮捕に始まり、全国的な逮捕劇が始まった。先述の4人を含めて被逮捕者は26人に及んだんじゃ」

7、六郎「26人も?・・全部が天皇襲撃計画の共謀者?」 三郎「とんでもないよ。残り22人は加わっておらぬ。なかに、そんな噂を聞いたことがある人間がいたかも知れんが、本気にしていなかったり、<そんなこと、とんでもない>と思っていた者たちじゃな」 六郎「とすれば、ものすごいでっちあげ??」

8、三郎「そうじゃ、だからこそ、大逆事件は、日本の歴史に残る<大でっち上げ事件>なんじゃ。<でっち上げ、乃至、意図的政治的権力行使>ちゅうもんは、世界の歴史上数え切れんが、なかでもこの大逆事件は、<超々典型的なもの>なんじゃぞ。・・・最近の小沢秘書逮捕事件じゃって、<意図的政治的権力行使の一種だ>と見られておるが、これなんぞは<超々小型大逆事件>じゃなー!。じゃがなー、いかに小さいものであっても、平素のチェックを怠っておると、やがて悪質化・巨大化するもんじゃ。・・・要注意じゃぞ」

9、三郎「大逆事件はなー、被告26人ちゅう大事件じゃのに、予審の終結から初公判までわずか一か月だった。訴訟記録は17冊に分けられた約7000頁のガリ版刷りで、積み上げると身長に達するというもんじゃった。これじゃあ、弁護士はたまらんわなー。この事件の裏には、前に話したことのある<侵略専制主義者・山県有朋がいた>と言われておるし、現に司法省刑事局長・平沼騏一郎は、この頃、『一人の無政府主義者もなきことを、世界に誇るに至るまで、あくまでも撲滅を期する』ちゅうとる。無政府主義者も社会主義者も、山県有朋や平沼騏一郎にとっては<おんなじもん>じゃったはずじゃ」

10、三郎「わしゃ『佐木隆三著・小説大逆事件』そのほかを参考にしておるが、この佐木氏は『石川啄木や徳富蘆花らが鋭く察知したように、大逆事件は、歴史の大きな曲がり角、支配層が後戻りのできない道を選択してしまったことの、ひとつのあらわれだった』と書いておる。<山県・平沼らも、日本を専制国家に導いて、太平洋戦争にまで至り、極めて多数の日本国民を奈落の底に陥れる役割を演じた責任者である>と、言うことができる」

11、三郎「後は大逆事件に関する雑談にするぞ。A、気に食わぬ社会主義者たちを、なんとかして被告に仕たて上げて、抹殺しようとしたのだから、26人逮捕劇は日本全国に及び、警察検察を総動員した。・・(佐木引用)『司法省刑事局長(大審院検事兼務)の平沼騏一郎は、第一線の検事たちに檄を飛ばした。《どうみても、幸徳秋水が首謀者だ。そうであればこそ、供述拒否をしているのだが、幸徳は当代一流の弁護士たちと親しくしており、ムリに口を割らせると面倒なことになる。こうなったら、外堀を埋めていこう。明治42年11月19日、巣鴨の平民社で、幸徳秋水、大石誠之助、森近運平の3人が幹部会をひらいて、今回の陰謀が成立したことに間違いない》こうして捜査本部は、和歌山県の大石と、岡山県の森近について予審審議(起訴)し、事件の拡大をはかったのである』・・」

12、六郎「大石とは、さっき聞いた人情ドクターのことですね?」 三郎「朝日新聞5月22日夕刊には『7月、高知・中村にいた秋水が急きょ上京、その途上、新宮に立ち寄る。大石は一夕、熊野川に船を出して秋水とエビとりに興じた』とある。付き合いのあった秋水や大石が会って、遊んだり社会のことを論じるのは当然じゃが、おそらく平沼検事たちは、それを陰謀成立に仕立てたんじゃな。秋水については、管野スガそのほか、みんなが、<実力行使には向かない人間>と見ていたことは明らかだ。・・ただ、幸徳秋水は、理論的指導者だったから、山県や平沼が<何が何でも秋水を首謀者にしないといけない>と考えていたことは間違いあるまい。人情医者でクリスチャンで、幸徳秋水らに時々カンパもしていた、そんな大石誠之も、死刑になった」

13、三郎「獄中で大石は『貧者、弱者に哀れを感じたのは私のセンチメンタリズムだったかもしれない。柄にもない大役で世間を騒がせて実にすまぬ気がする』と述べている。刑死1日前の奥宮健之は『どうも世の中にはふしぎなことがありがちのようです。私が死刑の宣告を受けるとは、ちょっと自分で妙な感じがする。こういうこともあるんですかねえ』・・・二人とも、自分に向けられた夢想だにしない逮捕・死刑宣告劇に対する<驚き・あきれ>を抑えた言葉で表している」

14、六郎「判決は?」 三郎「被告26人。予審終結から初公判まで、わずか一か月。公判開始は明治43年12月10日。判決は明治44年1月18日。審議はわずか40日弱。死刑は、幸徳秋水・管野スガ・宮下太吉・新村忠雄・古河力作・大石誠之助その他で24名・懲役刑が2名。翌19日、24名の死刑囚のうち12名を特赦で無期懲役に。・・すべて、<お手盛り審議・ドタバタ判決>であった。その上、処刑は判決6日後の24日に11名。25日に1名(管野スガ)であった。佐木氏は大逆事件について『石川啄木の言う<時代閉塞の時代>のなかで、ことごとく言論を封じられた者たちが、仲間内の放談で憂さ晴らしをして、空想的なテロ計画を口にしたことが、<皇室に対する罪>に擬せられてしまった』と書いている。・・・だが、前述通り、これで山県・平沼ら専制膨張主義者らはその目的を達し、大正・昭和と続く日本国民の不幸が始まったのじゃぞ。・・もう一度言うが、『山県・平沼は平成の今も存在している。常に、彼らの行動の芽を摘み続けねばならぬ』・・大逆事件と同じ明治43年に起こった韓国併合を、<会社合併並みだ>と言い、昭和6年に始まる満州事変・満州国建設を、<極めて正当な行為だ>と言う。《内に専制・外に膨張》・・・これは何時の時代にも連動しておるんじゃぞ」

15、三郎「さっき言うた大逆事件で、でっち上げ冤罪で殺された大石誠之助は与謝野鉄幹とも親しかった。鉄幹は『誠之助の死』という詩を書いた。『大石誠之助は死にました。いい気味な。機械に挟まれて死にました。・・誠之助と誠之助の一味が死んだので、忠良な日本人は之から気楽に寝られます、おめでたう』・・・、<機械に挟まれて死んだ・・・>それ以上に悲しい死だ。<忠良な日本人>を<山県とか平沼>に置き換えればよく分かる。・・・石川啄木は<大逆事件は権力のでっち上げだ>と直感した。<無政府主義者は性急な理想家>と書いた。啄木は明治45年(大正元年)に26歳で死んだ。<冷めたるココアのひと匙を啜りて・・・・われは知る、テロリストのかなしき、かなしき心を>と詠んでいた。・・・大石誠之助に一日遅れて処刑された管野スガは、与謝野晶子が大好きだった。<紫式部より一葉よりも>好きだった」

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2009年5月19日 (火)

人物鑑定・・・無理かな?

1、三郎「先日の朝日新聞だったかな?<田母神さん?・・・あの航空幕僚長を首になった御仁・・・が全国講演しておるそうじゃ。20代の女性がそれ聞きに行って『怖い人かと思っていたらそうでなかった、参考になった』と感想を述べておった。・・・《こういう段取りで、日本の民主主義・・選挙結果・・が決るんじゃなー》と感心したもんじゃ」 六郎「感心しちゃー困りますよ。おそらくその女性は、歴史も何も知らなくて、たまたま話聞きにいったら、意外にソフトで冗談も出る。その上<韓国併合は会社の合併とおんなじもの>などと聞かされたら≪ああ、物知りになれてよかった≫などと感じ入っているんじゃないですか。それが次の選挙行動に連動する・・・本当に由々しき事態・・・というところですよ」

2、三郎「そうじゃのう。防衛省で首斬られた御仁が、ニコニコしながら<私は被害者。実は正しいこと言ったがために首斬られた>ときたら、同情も集まるしのう。・・・それにしても、麻生首相や、あの千葉出身爆裂議員のご子息である防衛大臣が田母神さんの首斬った時には、わしゃ≪ほほう、意外だな≫と思うたもんじゃ。なんちゅうたって、超々右寄り権力者が、思想的同士の首を斬ったんじゃからのう。ありゃー、麻生さんも世論を恐れたんじゃな。選挙が近いから。・・・まだまだ世論には効果があるんじゃな」 六郎「その世論が、田母神講演などで、だんだんおかしくなる?子供孫の不幸につながる?」 三郎「そうじゃ、そうじゃ」

3、三郎「田母神さんの話は、<韓国併合≒会社合併>なんちゅう、誰でも分かるようなたとえ話じゃから、そりゃ無知なる人は<そうだったのか!>と信じてしまうぞ。しかもじゃ<私は・・慎重・・じゃなくて・・身長・・が足りません>なんちゅう元軍人さんの駄弁に魅せられたら、話の内容を、簡単に信じてしまうぞよ」 六郎「その話は、<日韓併合(明治43年)も、・・満州事変(昭和6年)も、すべて日本は良いことをしてきたんだ>という趣旨でしょう?」 

4、三郎「満州事変の話は前に話してやったから、今日は置いといて、韓国併合の話をしてやるぞ。<韓国併合≒会社合併>なんちゅう<噴飯ものたとえ話>は本人が考えたんかいのう?だとしたら、あの御仁も、小泉的パフオーマンスだけには長けておるんじゃのう。・・<韓国併合≒会社合併>については近代歴史学者の秦氏は<そんなもの、学問的話の対象にもにはならぬ>という意味のことを言われておる。学者じゃなくてても、歴史をいささかでも齧っている人間なら、<韓国併合≒会社合併??、何じゃいそりゃー>とあきれるだけじゃ。ところが最初に話したように、田母神さんに話聞いた20代女性は<参考になったと思うんじゃ」 六郎「<無知ダマシ>・・ですね。しかもその裏には、超右側思想者が居る。麻生さん・安倍さん・小池女史・・・そのほか自民党幹部にいっぱいいますね」

5、三郎「韓国併合は明治43年の出来事じゃ。近現代史の本には必ず出ておるが、その経緯については大同小異じゃ。つまり、学者の解釈は、ほぼ一致しておるんじゃ。そこで比較的詳しい『海野福寿著・韓国併合(海野)』と『呉善花著・韓国併合への道(呉)』から引用しながら、なるべく簡潔に話してやるぞ」 六郎「お願いします。わたしだって、<田母神論は噴飯もの!>ということは分かりますが、もう一度おとなしく聞きます。たしか、1993年に、日本の首相が。はじめて公式に朝鮮の植民地支配を陳謝したんでしたね」

6、三郎「最初に田母神氏の後ろにいると思える渡部昇一氏が、日本の韓国併合(明治43年)について、こう書いておることを言うとくぞ。『韓国の政府や民間から日韓併合の提案があった・・日本は関係国に打診した。米英をはじめとして誰一人として反対しなかった。・・国際的にみて一点の非の打ちどころもない条約をもって成立した』とな。・・・表面だけ見れば、これらは確かに事実じゃな。じゃが、例によって・・渡部流に・・歴史の真実をつぶさに究明しないで、結論にとって都合良いことだけを抜き出しておるんじゃ。こりゃあ、学問でも歴史勉学でもない」

7、三郎「(海野引用)『・・・アジアにおける帝国主義列強の対立あるいは同盟を利用しての日本の小帝国主義化・・(が始まる)。1886年(明治19年)を転機として、外戦(侵略戦争)に向けてのさらなる軍拡が発進する。90年(明治23年)12月、最初の帝国議会における山県首相の施政方針演説はよく知られている。山県は<日本の領域にあたる主権線>の守護と<国家の安全に密接に関連する地域、すなわち朝鮮の利益線>の保護を国家方針としてかかげ、利益線確保のための国力・軍事力増強を強調した。ここに日清戦争は予告されたいた』」

8、三郎「(呉要約引用)『朝鮮には、代々、李王朝のもとに官僚群があったが、君主専制や官僚専横など、時により変遷していた』『清は、1895年(明治28年)に日清戦争で敗れるまで李朝に対する宗主国であり続けた』・・・つまり、清国と朝鮮とは、久しく宗属関係にあったんだ。朝鮮が清国に貢物を差し上げ(朝貢する)、朝鮮王は清国皇帝から国王であることを認知(册封・さくほう)される、という、いわば主従関係じゃな。そこへ、日本が手を出し始めたんじゃ(ロシアも、・・だが)」

9、三郎「1894年(明治27年)に朝鮮に<東学党の乱>というものが起きた。(海野引用)『農民の世直し的生活権保障要求をふまえた反封建・反侵略という明確な政治目標を持った農民戦争である』・・これで、清国と日本から軍隊を派遣して鎮圧した。(海野引用)『朝鮮政府およびロシア・イギリスをはじめとする各国公使から日清同時撤兵の要求あるいは勧告が出され、清国側は撤兵に応ずる意向を示した。しかし、日本側はこれを拒否、・・・このとき日清両国の撤兵が実現していたら、日清戦争はおこらなかったはじである』『(日本側は)、大量出兵した以上、無成果のまま撤兵することは国内世論の点からもできなかった』」

10、三郎「(海野引用)『(明治27年7月)22日を回答期限とした日本側公文による要求(清国軍の撤退、清朝宗族関係を反映する清朝間諸条約の廃棄など)にたいし、朝鮮政府が回答を渋るとみるや、大鳥公使は混成第9旅団長大島義昌少将とはかって、軍事行動に移った』・・軍事行動とは、王宮を占領して国王を虜にすることであった。・・これが日清戦争の引き金になった。日本は勝利し、講和条約(下関条約)が結ばれた。(呉引用)『下関条約の第1条で、中国と朝鮮の宗族関係を廃棄して朝鮮を独立自主の国とし、それに伴って旧来の貢献典礼を廃止すると宣言されたことは、まさしく朝鮮半島の歴史にとって一大画期をなす出来事であった』(海野引用)『講和条約にいう朝鮮の独立自主とは、清国の影響を排除したことの宣言であり、日本が朝鮮を支配することの宣言であった』」

11、三郎「1895年(明治28年)9月1日、陸軍中将三浦梧楼が駐朝鮮公使として着任した。三浦公使の計画のもとで、10月8日未明、日本兵・領事館員・警察官・居留日本人壮士たちが王宮に乱入し、親露派である閔妃(みんぴ・国王高宗の妃)を斬殺し、遺体を松林に運んで焼き捨てた。日本政府は、三浦公使以下を軍法会議や広島地裁で審議したが、すべて無罪ないし免訴にした。日本政府は、前年の王宮占領について是認しており、今回の王妃殺害についても同様に訴追されなかったわけだ」

12、三郎「日清戦争からちょうど10年後に日露戦争が起こり日本がかろうじて勝利したちゅうことは知っておるじゃろうが。・・・日露戦争前、つまり明治34年6月成立の第一次桂太郎内閣の政綱に、<韓国は保護国となす目的を達すること>というのがあった。そして、(海野引用)『満州におけるロシアの権益承認と引き換えに韓国における日本の優位、すなわち<満韓交換>案が失敗に帰したとき、日露戦争による軍事的決着が不可避となる』ちゅうこっちゃった。その頃、日本がロシアに対して<満州はロシア、韓国は日本、という満韓交換論>を出したんだがロシアが賛成せんかったんじゃ」

13、三郎「日露戦争が起こると日本軍は陸続と韓国の仁川・漢城にも侵入した。(海野引用)『韓国の局外中立宣言はひとたまりもなく蹂躙された』・・・もっとも、日露戦争のはるか前から日本軍は韓国に駐留しておったんじゃが・・・・・(海野引用)『1905年(明治33年)5月1日、朝鮮駐箚軍司令官は漢城とその付近の治安警察権を韓国警察から奪い、言論・出版・結社・集会を統制して反日世論を封じたが、4月には反日活動が高揚した全羅道全州付近にもこれを適用し、日本憲兵隊が治安警察権を掌握した。日本軍の横暴な軍事制圧の前に、韓国政府はなすすべがなかった』・・・というぐあいじゃ」

14、三郎「疲れてきたぞ。もう、飛ばして行くぞ。日露戦争後から併合直前までに限って見た場合も、さまざまな反日闘争が見られた。日本軍朝鮮駐箚軍司令部編の『朝鮮暴徒討伐史』によれば、1907年(明治40年)8月から1910年(明治43年)までの義兵(反日)闘争の状況は、衝突回数・2819、衝突義兵数・141603、義兵側損害・死亡17688人、日本側損害・戦死133人となっておるんじゃ」 六郎「平時も戦時も、日本は軍事力・警察力で朝鮮政府や国民を押さえつけてきた?」 三郎「今まで取り上げた一部の事実から見ても、それは言えるんじゃないかい?」

15、三郎「(海野引用)『1905年(明治38年)8月12日調印の第2回日英同盟条約はイギリスのインド領有と国境防衛措置を日本が承認することとひきかえに、日本の韓国支配をイギリスが承認する・・・つまりイギリスは日本による韓国保護国化を認めたのである』『韓国植民地化の了承をロシアから取り付けた』『桂=タフト協定は、アメリカのフイリピン統治と日本の韓国に対する保護権設定を相互に認め合う内容だった』」

16、六郎「韓国統監であった伊藤博文は、もともと韓国保護国化論者で、併合に反対していたそうですね?」  三郎「そうじゃ。それに対して、山県有朋・桂首相・小村外相は併合を考えていたし河野広中・小川平吉・頭山満(玄洋社)も併合強行論者じゃったぞ。韓国内にも一進会などの併合推進団体があり、一進会は日本の国家主義団体黒龍会主幹内田良平を通じて山県や桂と関係を深くしていた。・・・だが、やがて、伊藤も統監政治の失敗を自認して併合論に改宗したんじゃな。(海野引用)『外務省編<小村外交史>が認めるとおり、日清戦争以来、日本政府は<韓国の独立扶翼、独立維持を幾たびか宣明>してきたてまえ、我方から進んで併合を決行することは聊か面白からざる関係だったからである。それゆえ、寺内(韓国統監)は李完用(韓国首相)にくり返して、日本の韓国併合は他国一般の強制的併合とは異なり、合意的条約によることを強調し、<韓国陛下は時運の趨勢に鑑み、自ら進んでその統治権を我が天皇陛下に譲与せられ>んことを要求した。植民地権力の後ろ楯でからくも政権の座を守ってきた李完用に拒否する力も勇気もなく、日本側提案を受けざるを得なかった』」

17、三郎「(海野引用)『イギリス・ロシアには調印前に併合条約締結の見通しを予告していたが、調印後ただちに列国政府に調印通告と宣言書を送った。しかし日韓両国内には公布までは秘密とし、統監府は、新聞報道の規制、集会・演説の禁止、注意人物数百人の事前検閲などをおこなった』・・・(呉引用)『<日韓併合の際に勅語には一視同仁とあるのに併合後韓国人は常に圧迫を受けて・・・という現実がもたらされたのである。民意・民情は、韓国人を二級国民とする国家意志に大きく左右されざるを得ず、<良心的な日本人>が多数あったにせよ、それをもってするだけでは、民族の尊厳を十全に確保することはできなかったのである。だからこそ三・一独立運動がおきたのであり、そこで提起された民族自決に大きく影響されて、李承晩らによる上海臨時政府が生み出されたのである』」

18、三郎「三・一運動というのは、1919年(大正8年)3月1日、京城(現ソウル)のパゴダ公園で学生たちが独立宣言を朗読し、大韓独立万歳を叫んでデモをはじめ、一般市民も合流した事件だ。これが各地に広がり、3月下旬には警察・官公署を襲撃し、放火をするという事態になったんじゃ。原内閣は歩兵6個大隊と補助憲兵400名を朝鮮に派遣して鎮圧したんじゃ。運動の参加者は延べ数十万人、騒擾箇所約620、運動側死者550人、官憲側死者8人、一般死者1人だ。日本の米騒動以上の大騒擾じゃった。なお、この間に、4月、李承晩らが上海で臨時政府として大韓民国を組織し、5月に(第一次世界大戦の)パリ講和会議に独立請願書を提出したんじゃ。結局、不発に終わったがのう」

19、三郎「もう面倒になってきた。これでやめるぞ」 六郎「よく分かりました。<国際的に見て一点の非の打ちどころもない条約でもって成立した>とか、<会社の合併みたいなもの>という言葉はどこから出てきますかねー?最後の形式だけ見れば、<韓国側からの統治権譲与申し出でを受けて日本が併合した><各国が了解していた>と、当時の寺内統監の思惑通りですね。歴史をそれだけで説明する御仁は、こりゃー噴飯ものですね」

20、六郎「普通、<会社の合併>といえば、みんな、コマーシヤルベースの円満な合併調印を想像しますね。・・・それが狙いの田母神さん?・・・親会社が子会社を、力ずくで、ギュウギュウ押さえつけて、無理に合併する、などということを、誰も想像しませんからね。・・・・・これから、みんな、話聞くにしても、事前の、講師に対する人物鑑定が何より必要ですね。・・・・無邪気な庶民には、そりゃー、・・無理ですかな?」

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