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2009年3月

2009年3月28日 (土)

雑感三題

その一 

1、《三郎》わしゃのう、大国主義・小国主義そのほか、ややデカイことをしゃべって、ストレス解消しておるが、たまには些細な思いつきも話してみたいぞ。雑感三題じゃ。 《六郎》どうぞどうぞ。我慢して拝聴しますよ》  《三郎》わしゃのう、年中、始発停留所からバスに乗っておるんじゃ。一日に2回乗ることもあるぞ。そんなわしが、年に5〰6回は体験しておることがあるんじゃ。・・・わしが乗るのは始発停留所じゃから、来たバスは、定刻まで時間待ちするんじゃ。後部の停車ライトを点滅させての・・・。そこへ、わしゃ、乗り遅れまいと小走りするんじゃ。そうして、後2〰3メートル(バス車体の中間部分の脇あたり)まで来たところで、バスは無情にも発車する。そんな経験を何度かしたんじゃ。 《六郎》それは残念無念。悔しいですね。 《三郎》最初の頃は悔しかったが、最近は慣れてきて、・・ああ又か!・・とあきらめるんじゃ。

2、《三郎》今朝はのう、おんなじように小走りして、間に合うたんじゃ。乗ったら、新米運転手が運転して、後ろに指導員がおった。わしゃ指導員に話しかけた。「あと2メートル=1秒、のところまで来ておって発車されたことがしばしばあるんじゃ。会社では<発射直前に、左右のフエンダーミラーを確認せよ>ちゅう教育せんのかいのう?」とな。指導員は「申し訳ありません。教育はしているんですが・・・。教育を徹底するよう会社に伝えておきます」と答えたがのう。前にわしが車庫(運転員の上司がおる所)に電話したときにもおんなじ答がかえってきたぞ。現に、おんなじ東急バスの玉堤巡回線では、運転者は発射前に必ず、指さしてフエンダーミラーを確認しておるぞ。 《六郎》だとすると、あなたの経験の原因は、運転手が怠けけたか?それとも運転手が客に意地悪したか?、ですね》 三郎《然り然り、意地悪もあり得るじゃろうのう。女房と喧嘩して出勤してきたから、客に意地悪して気晴らししてやれ、とかのう。仕方ないかのう!!・・・ともあれじゃ、こんなことでイライラしておっては、馬鹿馬鹿しい!・・・気長に行こうぜ!!》

その二

1、(三郎)バスの中で新聞読みながら思いついたことがあるんじゃ。 (六郎)はて、何を??。 (三郎)それはのう、某ジャーナリスト・・齢はもう70歳過ぎたかのう?テレビ司会でよう見る御仁じゃが・・一口でいえば≪自己顕示欲の権化≫じゃ。民主主義の世の中、ジャーナリズムの使命は極めて重要なんじゃが、それなのに、<自己顕示欲の権化は、まことに好ましくない。ジャーナリズムの使命に徹する御仁でないと困る。正義の士でないと困る>んじゃ。・・・民主主義国では、選挙権を有する国民が、賢明でなけりゃいかん。そうでないと、終戦から今日までの日本みたいに、≪長期・腐敗政権が衆愚を操るだけの・・・ニセ民主主義国になる≫んじゃ。エエか!衆愚を啓蒙すべきジャーナリストの責任は極めて重大なんじゃ。

2、(三郎)さて、そのおかしなジャーナリストじゃが。特徴は、①テレビ討論司会の時に、かねて用意してきたおのれの意見を大声で、自らしゃべりたがって、討論参加者の発言を遮るし、権力側には弱い。こりゃあ、司会者と言えんぞ。彼、若い頃には左翼ぶっておったそうじゃ。今は逆。 (六郎)そういう転向人間に、自己顕示欲亡者が多いようですね。正義感じゃなくて自己顕示欲(エゴ)だけ・・・。(三郎)彼の特徴の②は、有名人と共著で出版する本が多い。 (六郎)その方が、よく売れる?単独では中身に自信がない?これも自己顕示欲のみ(正義感なし)? (三郎)その御仁の単独出版を一冊だけ読んだが、中身お粗末じゃった。多分、ゴーストライターがおったじゃろうが、それでも。・・・ありゃあ、売れんかったじゃろうのう!

3、(三郎)何度も言うが、後発民主主義国(=国民超無邪気)である日本では、特に、国民啓蒙のために、正義感あふれる有能ジャーナリストが不可欠なんじゃ。その意味で、少し前に亡くなった某司会者や、現に癌闘病中の某司会者などは、わしゃ、大いに尊敬しておる。・・・国民は、選挙の時に、よく考えよく人物を吟味して投票すべきだし、平素もよく考えて、行動で意志表示すべきじゃ。日本では、最近は、それが全く無くなっておる。じゃから、今の大人どもは、<子供・孫の未来を、悪徳政治家集団に委ねておる>んじゃ。こりゃあ、<日常、猫可愛がりしながら、結局は、子・孫を不幸にする>、そういう愚か人間たちなんじゃ。わしが、何時も言う≪天唾愚民(テンツバグミン・天に唾する(自業自得の)愚かな民衆≫なんじゃ。

4、(三郎)あ、そうそう、昨夜8時頃?、わしゃ、珍しく、4チャンネルをちらと見たら、<太田総理なんとか>ちゅう番組やっておって、泉ピン子さんが≪この頃、国民は何にも行動しない!≫ちゅうて怒っちょった。わしゃのう、≪ああ、ピン子さん、よう分かっておるなー!≫と感じたぞ。わしゃ、これからは、ピン子さんのフアンになるぞ。 (六郎)そうですね。選挙以外にも、国民は街頭でも集団で意思表示すべきですね。昔はありましたね。最近は、選挙以外はジャーナリズムのやる世論調査くらいですからね。それから、テレビで見る街頭質問、あれ見ると、確かに、大の大人に、≪もぐもぐ・・投げやり回答・・アホ回答≫が多いですね。啓蒙が必要ですね。学校で≪何が現実的解決法か?何が正義か?≫を考えさせることがないんですかね?長期腐敗政権にとっては、それが一番都合いいことでしょうね。ピン子さんもそれが分かっているんでしうね。人は見かけによらぬもの! (三郎)こら、失礼なこと言うなっ。

その三 

1、(三郎)さっき、<人を見ろ>ちゅうたが、最近、こんなこともあったぞ。新聞などによると、堀田なにがし、は、検察官や法務官僚をやっておったが、やめて介護事業を始めた、ちゅうことじゃった。もう10数年前のことかのう?・・わしゃ、<法務次官や検事総長を狙わずに介護事業に携わる>とは珍しく偉い人物じゃ、と尊敬しておったんじゃ。勿論会うたことないから、直接人物評価はできんかったがのう。

2、(三郎)・・・ところが、彼、数日前の新聞に、例の小沢秘書逮捕に関連して小論文載せたんじゃ。要旨は<検察に説明責任なし>じゃ。わしゃびっくりしたぞ。<国策捜査か?とさえいわれておる検察に説明責任なし>じゃと?・・・かねてのわしの尊敬は、一挙に軽蔑に変わったんじゃ。彼が法務省をやめた理由は想像するしかない。<堀田氏が辞めた理由は、喧嘩か何かじゃったか?><介護事業したいという崇高な目的なんかじゃなかったんか?><弁護士と介護事業で儲けようとしたんか?><検察畑の権力意識が身に沁みておって、今でもその権力意識・嬌慢さが残っておるんか?>・・などなどとな。・・・ところで、先日、検察庁は、堀田論文に反して、異例の秘書逮捕に関する説明会を開いたぞ。先輩堀田の意見じゃー安心出来んかったんかいのう?

3、堀田なにがしについては、それだけじゃが、検察・法務の人間も官僚じゃ。ところで、今の日本の各省官僚体制はメチャクチャじゃ。無意味な天下り先をイッパイ作って、膨大な税金をタレ流して、何度も何度も退職金をセシメテおる。その税金無駄使いは長年国民に負担を強いておる。官僚悪し。・・・同時に、それ以上に、戦後60年間、それを改善せんママに今日に及んだ自民党に、極めて大きな責任があるんじゃ。≪民主党も自民党と大差ない≫ちゅう声がある。そうかも知れんが、彼ら野党は<官僚制度を変革して税金乱費を防ぐ>ちゅうとる。≪大差ない≫などと白ける前に、やらして見んかい!・・・少なくとも、≪政・官・業癒着の悪習に染まってない野党≫は≪60年腐敗与党≫よりは、はるかにマシなはずじゃ。官僚たちは今までの方がエエに決まっておる。麻生首相は、既に、≪官僚体制変革をやる気がない≫という姿勢を見せておるじゃないか。・・・政権交代をすぐにやるべきじゃ。わしゃのう、自民党政権が介護保険開始を10年遅らせた為に、愛する母を、不幸なままに死なせたんじゃ。恨み骨髄じゃ。これが実例じゃ。庶民がボヤボヤしておることは、おのれらや子供や孫を、永久に不幸にすることなんじゃ。その裏で、官僚や政治家に甘い汁吸わせて、のう!! 

その四

1、(三郎)わしゃのう、昨日テニスがなかったんで、机の前に座って、『立花隆著・天皇と東大・上巻』ちゅう分厚い本を、パラパラと読み返しておったんじゃ。その本の『右翼イデオローグ上杉慎吉教授と大物元老』なるところをな・・・。大正10年前後の出来事が書いてあった。上杉慎吉教授は東大法学部憲法学教授で右翼集団の指導者じゃった。著者立花氏は、上杉を、『現実政治を動かすために、政治家、官僚、軍人、などと組んでさまざまに動く策謀家であると同時に、志を同じくするものを糾合して、政治的活動体を作ろうとするオルガナイザーでもあった』と書いておるぞ。その上杉教授は元老山県有朋と極めて近かった。この本には、こうも書いてある。『山県の国家思想と上杉の国家思想は基本的なところで完全に一致(天皇の権力を絶対的なものとみなし、それへの絶対的な忠誠を誓う天皇制絶対主義。政党政治を国体に反する絶対悪とみなす立場。社会主義、労働運動などを断固排撃する立場に立ち、それらの運動を助成する一部知識人へ極端な反感を持つなど)していたから、両者の結びつきは必然的といえばいえるのだが、)』と。

2、(三郎) じゃがな、≪その山県は、明治天皇の晩年、天皇の病が篤くなった頃、会議で居眠りする天皇を目覚めさせようとして、軍刀で床をトントンとたたいた事がある≫と、わしゃ聞いたことがあるぞ。山県の天皇崇拝ちゅうもんは、天皇の権威を利用する為のジェスチャーで、<居眠りしてもろうたら権威にかかわるじゃんか>ちゅうのが、彼の本心だったと思うぞ。 (六郎)なるほど、なるほど、世の中そんなものなんでしょうね。 (三郎)わしがしばしば話したように、山県は内政では極端な反民主主義だし、外政では、<国境線の外に利益線を確保すべきだ>と主張し続け、その後の日本に大きな影響を与えた御仁じゃ。膨張主義・大国主義・帝国主義につながる思想じゃな。

3、(三郎)再び、立花氏の著書から引用するぞ。『まず大正9年、できたばかりの経済学の研究誌『経済学研究』に森戸辰雄(モリトタツオ)助教授が書いた≪クロポトキンの社会思想の研究≫という論文が新聞紙法によって<朝憲紊乱(チョウケンビンラン、政府転覆など国家制度を壊す)の罪>に問われ、・・・』とある。時の権力側は検察権力を利用して、大正デモクラシーの動きを封じる数々の作戦に出たのじゃ。森戸事件はその一つで、これはこじつけの学者弾圧じゃ。背景には、例えば、大正7年に、米騒動が起きておった。生活のあまりの苦しさに、富山県の女房一揆が発端になって、40日間、全国で100万人が参加した。政府は、警察力だけでは不足して、10万人の軍隊を出動させて鎮圧したんじゃ。検挙者2万千人、死刑2名・無期懲役12名だった。余談になるが、この時、大阪朝日新聞が≪白虹日を貫く(中国古典。白い虹が太陽にかかること、転じて革命が起きる)≫という表現を使ったら、担当検事は≪発売禁止するぞ≫と脅し、新聞社社長村山龍平は右翼の壮士に襲われた。

4、(三郎)その森戸事件に戻るが、立花さんの著書にはこうある。『・・・誰がデッチあげたか。それは今でも文書の上ではわかっていないが、当時東大法学部教授だった上杉慎吉一派と、検事総長であった平沼騏一郎(元自民党・今無所属の平沼議員はそのお孫さん?ともかく身内だ)という連中が息を相通じて、事件摘発になったことは間違いないと思う、・・・後年上杉教授が、ベルリンで、森戸事件をやったのは俺だと、公然と大勢の前でいったという話がある。・・・決定のレベルは検事総長、総理大臣(原敬は法務大臣も兼務していた)のレベルまで上がってしまっていたのである。・・・関係資料を検討してみると、本当はその上のレベル(というと元老山県有朋しかいないが)で森戸処分が決まったのではないかと考えられるのである』

5、(六郎)森戸教授を、しかも、その論文の趣旨をデッチ上げて(歪曲して)検挙する。それも政権トップと検察トップが共謀して??・・・。大正デモクラシーを恐れて、権力が検察を使って弾圧し、世論を動かそうとする。こりゃあ、88年前の出来事ですが、なんか、今にも通じるような気がしますね。選挙が近い時期に、唐突な野党党首の秘書を逮捕・・・昔は<大正デモクラシー弾圧>。今は<政権交代機運粉砕?>・・・現在進行形みたいな気がしますねー・・・野党党首の秘書の逮捕だけでは、裏がばれる(ウラバレ)の危険があるから、与党から二階とかいう人身御供(ヒトミゴクウ)を出そうか?・・・現状に、そんな想像ができますねー。事実、小沢党首の秘書とおんなじことやった御仁が自民党には10人近くいる(本当は何十人?・・ばれていないだけ?)。

6、(六郎)88年前の事件では、上杉教授がドイツへ行って、気が緩んでつい真実をしゃべってしまったそうですが、つい先日も、漆間とかいう元警察庁長官・現内閣官房副長官が、つい口を滑らしましたよ。そうして、国会に呼ばれて<記憶にありません>を連発しました。・・・88年前と似てますね、似てますねー・・・≪歴史は繰り返す≫は、ホンマかもしれませんねー。こんにちの出来事では、たとえ、ばれそうになっても、≪①確証がないし、②政権交代ムードをつぶす、という目的は既に達成された≫・・・。となると、この権力・検察劇は大成功ですね。・・・あ、そうそう、88年前に森戸事件をデッチあげた、あの権謀術数型国士・上杉慎吉教授の教え子が安岡正篤(ヤスオカマサヒロ・陽明学者・年号「平成」の名付け親)という人で、その安岡氏を師と仰いだのが、あの吉田茂氏(麻生首相の祖父で、昭和初期の対満蒙積極論者)というのも、なにか因縁を感じさせますねー!!

7、(三郎)日々言うことが変わるグラグラ首相の周りを、昭和初期の帝国陸軍将校(辻政信とか佐藤賢了とか)タイプの側近が取り囲む政権では、70年前頃と同じく、国民を奈落の底に落としかねんぞ。一国の首相たるものは、政治・経済・法律にも、科学にも、レベル以上の素養を持ち、国民の生命財産を守るための誠実さを持って、優れた経綸がなけりゃならん。踏襲をフシュウ、怪我をカイガ、などなど、読み違いが数え切れないようでは、素養に基づく経綸などあり得んじゃないか。陸大を優秀な成績で出て参謀将校になったが、国民を守るという誠意に欠け、ひたすら出世欲と自己顕示欲だけで、多数の若者を無駄死にさせた、そんなかつての軍人を思い出させるような側近では、国民危うしじゃ。・・・そんな時に、野党党首の秘書が逮捕された。もしも、事実だったら糾弾されるべきじや。だが、似たようなことをした人間は、むしろ与党に多かった。そんな状況の中で、現職首相の支持が上がるというのは、いったいどういうこっちゃ??全然別問題じゃないか。政権評価は相対評価じゃない。絶対評価じゃ。野党側に何があろうが、政権側は低劣続きなんじゃ。ほんまに世論は低劣じゃ・・・これこそ、国民が天唾愚民たる証拠じゃ。残念だが、実に、実に、愚劣じゃのう。

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2009年3月23日 (月)

大国主義・・?小国主義・・?  歴史観2、大正

四郎、次は大正時代の歴史概観をやるぞ。それも、必要最小限のな。・・<太平洋戦後、占領政策として歴史教育が抑えられた>と聞く。<大国主義よもう一度>と思う与党議員たちも、歴史教育がなかったことを喜んでいる筈だ。歴史を何も知らぬ国民に、ここであらためて、渡部昇一氏的・▽▽元航空幕僚長的な、<日本は良いことをして来たんだ的>な、・・そういう大国主義の歴史を広めれば、<国民はコロッとゆく>と思っておるんだろうからな。なにせ、三浦銕太郎氏の言う通り、大国主義というものは<国民の自負心を満足させ、この感情はすこぶる強烈で・・・人民は歓呼する>んだから。

1、彼の有名な政治学者吉野作造は『民本主義鼓吹時代の回顧(社会科学1928年2月)』でこう述べている。「日露戦争が一方に於て国民を帝国主義的海外発展に陶酔せしめたと共に、他方、国民の自覚と民知の向上とを促して自らデモクラチックな思想の展開に資したことは、既に人のよく云う所である」と。ここに「帝国主義的」とは、「大国主義的」と言い換えてもよい。これが、大正時代を、一言で・・抽象的に・・表現した言葉である。

2、日露戦争に勝った日本は、ロシアを排除して韓国を単独支配するようになった。これは英米も容認していたと見てよい。それと、もう一つ、満洲に新たな権益を得た。それは、A、旅順・大連など遼東半島先端部分の租借 B、鉄道経営権(旅順〰長春・安東〰奉天)とその付属地租借 C、石炭採掘権(撫順等) D、鉄鋼採掘権(鞍山) E、鉄道を守るための軍隊駐屯権(約1万4000人、後の関東軍)などなどだ・・これは先述した・・。清国領土内の地域や施設を日露間で勝手に取引し、清国は事後、やむなく承認させられた。清国代表袁世凱は「ロシアが煙草を2本持ち去ったのを理由に、日本に一箱全部持っていかれた」と嘆いたそうだ。日本は現地に関東都督府や満鉄(南満州鉄道株式会社)を設けた。

3、明治43年8月22日、日本は韓国を併合した。韓国を保護国・衛星国ではなく自国にしてしまったから、更に外側に緩衝地帯(山県有朋の言う利益線)が欲しくなり、満州などに進出したくなる。これが大国主義である。政府も陸軍も、どちらからともなく、満鉄などを足掛かりにして満蒙へ支配権を広げようとし始めた。満蒙とは満州と蒙古のことであり、満州とは、今日でいう中国東北部、当時の黒竜江省・吉林省・遼寧省(=奉天省)を言い、蒙古は今日のモンゴルである。・・・日露は戦後間もなくからの第1回(明治40年)・第2回(明治43年)日露協約によって、鉄道・電信をも含む全般について、互いの勢力圏を話し合った。その結果、<南満州は日本、北満州はロシアの勢力範囲とすること>を合意したのだ。更に、明治44年、中国に辛亥革命が起きて清国が滅ぶに及んで、明治45年(大正元年)7月、第3回日露協約で、<内蒙古について、北京の緯度(東経116度27分)以東を日本、以西をロシアの特殊利益地域とする>と合意した。・・・かくして日露戦後7年目に、日本は、南満州と内蒙古東部(当時、日本国内では、この地域を「満蒙」と呼んだ)に支配権を伸ばした(英仏の2列強にはそれが内告というかたちで知らされていた)。

4、が、勿論、以上のような日露合意は、中国側の了解をとってなされたものではなかった。・・・大正3年夏、第一次世界大戦が勃発した。8月8日、病後で保養中であった元老井上馨は、「この戦争は日本にとって天佑である。英仏露三国と一致団結して東洋に対する日本の利権を確立すべきである」という意見を口述筆記して、元老山県有朋と大隈首相に送った。大隈内閣もこれを天佑ととらえた(「伊藤之雄著・政党政治と天皇」参照)。

5、第一次世界大戦開始後、日英同盟に基づいて、イギリスからドイツ艦隊攻撃を求められた日本は、みずから進んで参戦し、中国膠州湾のドイツ租借地青島(チンタオ)などを占領した。そうして、大正4年1月、日本は中国袁世凱政権に『21カ条要求』を突きつけた。それには、「①ドイツが中国で持っていた権益を日本に認めること」「②日露戦争で日本が得た旅順大連満鉄などの権益期間を99年延長すること」「③日露協約で決めた南満州や東部内蒙古地域で、日本国民に土地の賃借権・所有権、自由に居住・往来し業務を行う権利、鉱山採掘権を与えること」などのほかに 「④中国は沿岸の港湾や島を他国に譲ったり貸したりしないこと」があった。更には「⑤中国の中央政府に政治・財政および軍事顧問として有力な日本人を雇うことや、必要な地方の警察を日中合同とし、警察官庁に多数の日本人を雇うこと、および、日本から一定の数量以上の兵器を供給し、日中合弁の兵器工場を設立すること」など・・・・を要求した。

6、これらは極めて高圧的な要求である。特に⑤は日本が中国を保護国にしようとするものである。・・・当時はまだ、帝国主義の時代で、<文明国が未開国を植民地にすること>は終っていなかったが、中国を日本が保護国にすることについては、<他の文明国(欧米列強)の中国における利権を犯す>という意味で、英米などの批判を受けた。

7、この21カ条要求は、第一次世界大戦で欧米列強がヨーロッパの戦争に集中している隙を突くべく、大隈内閣が行ったものであるが、勿論陸軍も、大いに推進した。この頃、陸軍では、青島守備隊や満州駐屯軍の交代期に当たっていたので、交代部隊を送り込む一方で、日本に帰還させるべき部隊をそのままとどめておいた。兵力増加を見せつけて威圧したのである。袁世凱政権はこれに屈し、日本の要求を認めたが、日本が中国に突きつけた回答期限(大正4年5月9日)は≪中国国恥(コクチ)記念日≫とされ、その後の排日運動の起点となった。・・・つまり、「21カ条要求は、中国の排日運動の起点となったし、欧米列強の対日不信感にもつながった」と言える。余談になるが、前述の「⑤中国政府や警察に日本人を雇え・・日中合弁の兵器工場を作れ・・」という強硬な要求を日本側が取下げた時に、参謀本部から派遣されていた坂西利八郎(バンザイリハチロウ)陸軍中佐は強く反発し、<むしろ中国を日本に倂呑すべし>と論じたという(「太平洋戦争研究会・日本陸軍がよくわかる事典」参照)。

8、この『対華21カ条要求』は大正4年の出来事だが、その後の歴史で大きな意味を持っている。・・2〰3引用する・・『このとき(21カ条要求の大部分を中国が承諾した時)、中国では激しい日貨ボイコット運動が起こった。この運動は一時的に盛り上がったのち、いったん収まるが、以後長期にわたって反日ナショナリズムを鼓舞する記念日になった。・・・原(敬)の目には、大隈(重信)は、明治14年の政変、条約改正、第一次大隈内閣(隅板内閣).と、失敗を続け、日露戦争前は早くから対露強硬論で国民を煽り、第二次大隈内閣では21カ条要求で日中親善を損ね、最後は大正天皇を政治に巻き込んで憲政を危うくしかけた政治指導者としてしか映らなかった(伊藤之雄著政党政治と天皇)』・・・『中国北部一帯に爆発的に広がった反帝国主義運動の義和団事件(1899〰1901年、北清事変ともいう)以降、各強国は中国各地に駐屯軍を認めさせ、上海に特殊権益をもつ租界をつくるなどしていたので、中国の民衆はそれまで欧米の列強たちに怒りをずいぶん感じていたのですが、この頃から(大正のはじめころ)、それは主として日本に向いてくるようになりました。大正8年(1919)には、対華21カ条の要求を中国歴史上始まって以来の屈辱的な出来事として怒りを結集させ、北京の学生が中心になって日本に対する猛烈な抗議運動を行い、それを日本が弾圧するという事態になりました。いわゆる五・四(ゴ・シ)運動と呼ばれる事件です(半藤一利著・昭和史)』

9、引用を続ける。・・ 『支那の政府と国民は・・あるいは一時は力に屈して、しぶしぶ承諾する形をとっても、いつかは必ず問題を起こし来ることは、かの大正4年の21カ条要求がその後いかなる結末を示したかを見ればわかる。・・・彼らの領土と信ずる満蒙に、日本の主権の拡張を嫌うのは理屈でなくして、感情である。つまり、それがナショナリズムということなのである、と湛山はいう。いかに善政を布かれても、日本国民は、日本国民以外の者の支配を受くるを快しとせざるがごとく、支那国民にもまた同様の感情の存することを許さねばならぬ。しかるに我が国の満蒙問題を論ずる者は、往々にして右の感情の存在を支那人に向かって否定せんとする。明治維新以来世界のいずれの国にも勝って愛国心を鼓吹し来れる我が国民の、これはあまりにも自己反省の欠けるたいどではないか(半藤一利著・戦う石橋湛山)』

10、更に引用する。・・『日本の利益範囲が英仏露から認知されていたとしても、当該地域が中国の主権のもとにある以上、中国から法的権利を承認されなければ実体化されない。・・・日本は15年(大正4年)5月、いわゆる21カ条要求を最後通牒付きで行い、南満州及び東部内蒙古に関する条約によって、ようやくその目的を達した(加藤陽子著・満州事変から日中戦争へ)』・・・引用し始めるときりがないが・・・、中国で明治44年に民衆・軍隊による辛亥(シンガイ)革命が起こり、翌大正元年に、清朝が倒れて中華民国が生まれた。4年後の『対華21カ条要求』の≪華≫は中華民国の≪華≫である。ともあれ、この対華21カ条要求は日中関係の歴史を考える場合の重要案件である。

11、ところで、田母神元航空幕僚長の後ろに鎮座している、と思われる立教大学名誉教授渡辺昇一氏が『渡辺昇一の昭和史』という著書を出している。この本は、昭和史と銘打った345頁の本だが、そのうち200頁ほどは日清・日露戦争・日韓併合など明治時代の、つまみ食いのテーマに応じた読み物風物語である。所謂歴史事実からの積み上げはない。そうして例えば、『日韓併合は適法に行われた。過日の湾岸戦争でイラクがクエートを併合したのとは、わけが違うのだ』と来る。『溥儀は無理矢理に皇位に就けられたのではない。彼は自らの意志で満州国皇帝になったのであり、それを傀儡国家呼ばわりするのは溥儀の意志を全く無視している』『蘆橋溝事件は中国共産党の仕組んだワナであった』とも。

12、渡部先生の記述は、勿論、<韓国併合・満州国建設・・・・・・、などなど、日本はいいことばかりしてきた>と、大国主義大賛美である。・・・さて、ここでは、唯一、『今まで見てきたように、例えば≪対華21カ条要求≫は、満蒙問題・対中国関係などの日本の近代史にとって極めて重要な意味を持つのであるが、このような歴史事実は、渡部近代史では、全く無視されている。なんちゅうたって、つまみ食い論なんだから』・・・とだけ指摘しておく。この一事をもってしても・・・・・、≪それは科学ではない≫・・・≪学問でもない≫・・・と言うことができる。

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2009年3月 9日 (月)

政治家や役人の人物見破らにゃー

1、三郎「毎日、テレビ見れば<小沢騒動ばかりじゃな>」 六郎「テレビ局も、新聞もテーマに事欠かず、喜んで、繰り返し繰り返し、やりますね。本当にくどいですね。≪エエ加減にせい≫と言いたいですね。ジャーナリストというのは、ほんとうに、クドクド人間ばかりですね」 三郎「民主党のオーさんが自民党を抜けたんは、<自民等はホンマに汚い>とあきれて<もっと政治をきれいにせんといかん>と思うたからじゃないんかい?・・・いまだに政治献金大好き人間かい?」

2、六郎「そいつはよく分かりませんが、今回の事件で、自民党の汚さの方が浮き彫りになりましたね。元首相のモーさん、大臣のニーさん、元大臣のオ-さんそのほか10人近くが民主党のオーさんとおんなじ建設会社から献金貰っている。全部足したら民主党のオーさんの金額と変わりゃしません。しかもその自民党のお歴々は<道義的に問題だから返します>と言っています。返す相手の団体は解散しているから返せないことを知りながら。≪検察さん、私たちを民主党のオーさんみたいに検挙しないでください≫と懇願している。・・汚ないですね。人間の屑ですね。見るに堪えないですね。吐き気しますね。それが自民党にはいっぱいいる」 

3、六郎「自民党にはそのほかにも、重鎮のイーさん、派閥長のマーさん、『サー、民主党のオーさん事件で、こっちにツキがきたぞ』と有頂天になった幹事長さん、などなど、顔見るだけで、≪老獪の極、超嬌慢・卑怯未練の手本≫と思える人が沢山いますね。戦後60年間政権を壟断してきたその澱(オリ)が実によく見えます。澱とは、辞書によれば『流体の底に沈んだかす』だし、≪かす≫とは『最も下等なもの、くず』ですがね。テレビで自民党の人間を見れば分かるはずですがね。アリアリじゃないですか!?いくら無邪気な国民でも、それくらいわからにゃあ。本件関係は民主党では、党首のオーさんだけだが、もしもやったことが、今言うた自民党の澱族どもとおんなじだったら、潔く辞めるべきだ。党首だけでなく議員も。勿論、自民党の澱族数人もおんなじだ。ただ、それでも自民党の汚さは救い難い。だからせめて5年間、民主党中心の政権にして、①汚職を断つ②役人天下りのために沢山ある団体を無くす。それで膨大な税金無駄使いを無くす。③国会議員の定数を思い切って減らす④業者と族議員のための無駄な公共投資(道路やダムや新幹線工事など)をやめる・・・などなどをやらせてみたいものですね!!!」

4、六郎「漆間(ウルマ)とかいう内閣官房副長官。官僚のトップちゅう立場らしいですが、元警察庁長官ですね。元警察のトップで今官僚(役人)のトップ、といわけです。警察というたら、正義を守るのが仕事でしょう?詐欺を捕らえる。泥棒つかまえる。・・・官僚は国民のために働くのが仕事。だから税金から給料もらっている。・・・そのトップが、嘘ばかり言う。オフレコ会談でも20人の記者がいた。そこで、自分が、数日前に言うた事(・・検察の手は自民党には及ぶまい・・)を≪記憶にありません≫ですます。20人の記者の記憶を覆す。・・・それで通る・・それがこの日本??世界中で日本だけでしょうね。こんなエエ加減な国・政府・警察・官僚・国民は!!東大卒のエリート警官、官僚・漆間氏・・・・・ところで、東大合格者が発表されて、合格者が喜ぶ姿がテレビに映ったが、なんだかしらじらしい!<卑怯・汚濁人間の出発日>みたいに見えてきましたよ」

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2009年3月 2日 (月)

大国主義?・・小国主義?・・歴史観1、明治

四郎、「わが身を守ること」は、国にとって最重要事項だ。大国主義(大日本主義)・小国主義(小日本主義)も、それらに関わる歴史的な思想だ。現在でも、大人は、これについて、おのれの思想を持つべきだ。勿論、政治家はそれを明確にした上て、国民の支持を求めるべきだ。2・3人前の某首相は、「歴史認識は学者に任せる」と言い逃れたが、彼が短期間で政権を投げ出したことは、国民にとって幸運であった。が・・・

A、日清戦争へ。1、明治維新で(各藩主を将軍が統べるのではなく)政府のもとで一つの国になった日本の当面の大問題は、①一人前になること・・欧米先進国との間の不平等条約の治外法権条項を排除する・・など。②わが身を守ること・・国防・産業方針・・など、であった。以下その②に関わる「大国主義・小国主義」について話す。

2、明治3(1870)年4月に外務省が太政官へ出した「対朝鮮政策3カ条」の第二には「通商条約締結を持ちかけ、これを朝鮮側が拒否するならば武力発動に及ぶ」とある(海野福寿著・韓国併合)。まさに明治の初めから大国主義思想が存在した。同書には「明治6年7月、清国出張から帰国した副島外務卿の、清国の対朝鮮不干渉確認の報告を受け、征韓が外交的紛糾をひきおこさないと知ると、同年8月17日の閣議は、皇使として参議西郷隆盛の朝鮮派遣を決めた。・・・だが、岩倉・大久保・木戸ら内治派がこれを阻止した(明治6年の政変)・・・。とは言え、岩倉たちの朝鮮認識、対朝鮮政策が西郷ら征韓派のそれとそれほどへだたっていたわけではない。政府内部の指導権争いが両派を決定的対立に追いやったのである」ともある。・・・明治の初めから、日本政府首脳は、おしなべて、先ず、朝鮮を狙ったのである。なお、沖縄は日清両属(日本・清国の両方の支配下にある)の歴史を持っていたが、明治12年に、日本は沖縄県設置(琉球処分)を行って沖縄を奪っていた。

3、明治23年12月6日、山県有朋首相は「主権線・利益線演説」をやった。主権線は国境線のこと。利益線はその外側で主権線を守るための範囲のことだ。山県は「主権線を守るだけでは不十分だ」と言った。利益線にはまず朝鮮(明治30年に朝鮮を韓国と改称した)が、更に清国特に満州その他が入ることは明らかであった。山県はこの思想を明治の初期から持ち、かつ、表明していたはずである。明治14年の政変を経て政権を岩倉具師・伊藤博文・山県有朋らが握り、明治10年代から、日本は侵略戦争に向けての軍拡を促進し、朝鮮・中国大陸へと野望を広げた。日本の帝国主義化(大国主義化=大日本主義化)である。日本政府首脳は富国強兵にこだわり、明治30年代前半の国防費は国家予算の半分近くに達していた。国民は重税を課され、民政予算は削られていた。政治の中心が国威・国防におかれ、庶民の生活は軽んじられた。まさに大国主義である。

4、山県たちに早くからあった利益線思想(大国主義)の眼は当然、先ず、朝鮮に向いたが、その朝鮮は清国の傘下にあった。明治15年10月の中国朝鮮商民水陸貿易章程には「朝鮮が清の属邦」と記され朝鮮王は清の北洋大臣と同格とされていた。日本は、朝鮮を清国の影響下から切り離そうという方針を持っていた。一方、明治18年・19年の第1次・第2次露韓密約に見られるように、ロシアも朝鮮への進出を試みていた。清国の朝鮮に対する帝国主義的支配意欲は、当然露・韓関係にも干渉を加えていた。

5、明治18年10月、日清間で天津条約を結んだが、その中で、日清両国は、「朝鮮に派兵する時には文書で互いに通知する」となっていた。明治27年2月、朝鮮に東学教徒及び農民の乱が起きたが、手こずった朝鮮高宗は清国に派兵を要請した。かくして、日清両国は朝鮮に派兵した。『佐々木隆著明治人の力量』には、「この時、陸奥外相は朝鮮に対する日本の影響力強化を策したが、外交行動は先ず清国に先にやらせて日本の国際的な責任を逃れておき、一方、軍事では日本が先制を取る、という方針であった」とある。「陸奥は、川上参謀次長から対清戦必勝を保障されており、清との戦争を歓迎していた」とも。

6、日本は「朝鮮に清国との宗属関係解消を迫ったが聞き入れられなかった」「清国に朝鮮の日清共同改革を申し入れたが拒否された」などをきっかけにして行動を起こした。明治27年7月22日、大鳥公使は混成第9旅団長大島少将とはかって朝鮮王宮を占領し国王を虜にし、政権を牛耳った。2〰3日後、日本軍は朝鮮政府から<清国軍駆逐の委任>を引き出し、これを口実にして行動を開始した。日本の陸海両軍が清国軍を奇襲したのである。・・・当時はまだ、世界的に開戦奇襲が常識ではあった・・・。この日清戦争に日本が勝利し、明治28年4月17日に下関講和条約が調印された。講和条約にいう「朝鮮の独立自主」とは、清国の影響を排除し日本が朝鮮を支配する」という宣言であった。まさに日清戦争は、朝鮮支配をめぐる日本と清国との戦争であった。両国とも、欧米先進国との間では不平等条約を抱える従属国でありながら、朝鮮侵略をかけて帝国主義戦争をしたのである。勝者日本が帝国主義に転化し、清国と朝鮮が植民地化に向かった。

7、日清戦争での日本の動員兵力24万人、戦没者13、488人であったが、戦没者の内の戦死者は1、132人のみで、大部分は戦病死であった。戦費は2億百万円であった。下関条約によって、日本は、朝鮮から清国の影響力を駆逐したほかに、清国から遼東半島・台湾・澎湖列島の割譲を受けたが、露・独・仏から遼東半島を返すように圧力をかけられ(三国干渉)、これを返還した(日本の植民地経営で採算がとれたのは台湾だけであった)。日本政府は、三国干渉の屈辱を、特にロシアへの敵意にかきたて、軍備増強を進めて行った。

B、日露戦争へ、 1、日清戦争で、朝鮮支配競争から清国を追い出した日本であるが、今度はロシアの影響力に阻まれた。焦った日本が朝鮮の親露派閔妃(ビンピ・国王高宗の妃)を暗殺したため世界の非難を浴びることになった。明治28年9月1日に駐朝公使になった三浦梧楼陸軍中将は10月8日未明に日本軍・領事館員・警官・壮士などで朝鮮王宮を制圧させ、閔妃を斬殺させた。妃の遺体は松林に運んで焼き捨てられた。日本政府は三浦公使以下を帰国させたが、免訴にし、日本国民は三浦らに万歳を浴びせた。

2、ロシアは朝鮮の高宗をロシア公使館に移して朝鮮国内でその勢力を増し、あわせて三国干渉で日本が清国に返還した旅順・大連を手に入れ、東清鉄道を建設するなど、満州でもその勢力を伸ばした。日本は「満州をロシア、朝鮮を日本に」という満韓交換論を唱えたが、ロシアが同調するはずがなかった。満州・朝鮮のいずれも、日本・ロシアにとって他国であるが、それらについて、当然の如く勢力範囲を論じあうなどは、まさしく帝国主義的(大国主義的)行動である。・・・さらに日清戦争で敗北して、清国は日本に対して、自国の国家予算の約3倍(2億3千万両)の賠償金・報奨金を払うことになった為に、それを列強各国から借りるほかなかった。その借金の見返りは清国各地の租借であった。明治32年頃までに、ロシア(旅順・大連など)・ドイツ(青島など)・イギリス(九龍など)・フランス(広州湾など)の清国に対する租借が目立った。皮肉にも清国の対日支払いが、西欧諸国の対清帝国主義を促進することになった、と言えよう。

3、それに対して、明治33年夏、清国内で「扶清滅洋(清を助け外来勢力を撃退する)」を掲げる義和団の武力蜂起があり、清国政府もまた、列強に対して宣戦布告をした。これが北清事変(ホクシンジヘン)である。そこで8カ国(日・英・仏・独・露・米・伊・墺)連合軍が清国に派遣されて清国は鎮圧された。日本もイギリスの要請に応じて加わったのである。この結果、日本もはじめて、清国内(北京周辺)に数千名の軍隊を駐屯させる、という権益を得たのである。これが清国駐屯軍(後の支那駐屯軍・・大正元年、清国は滅び中華民国になった・・)である。・・・・・37年後の昭和12年7月7日の夜、十数発の飛弾をきっかけにして支那駐屯軍と中国軍との交戦が始まり、8年間にわたる日中戦争・・更に太平洋戦争へ・・となった。この「他国内軍隊駐屯」のような、本来異常な事実が、やがて国民や政府の意識を「当然だ」に変え、更にそれを進めるようになり、遂には重大な結果を招いたのである。

4、明治33年12月30日に列国と清国との和平交渉が妥結したが、その中で、列国の公使館護衛兵の設置も約束され、日本の清国駐屯軍も引き続き駐在することになった。ところで、北清事変を機に、ロシアは10万とも10数万とも言われる大軍を清国に送り込み、満州をほぼ占領してしまった。日本国内では、「このままだと、満州に近接する朝鮮における日本の勢力も脅かされる。ましてや、ロシアから遼東半島を奪い返すという三国干渉への復仇が果たせない」という思いが出てきた。更には「朝鮮の次に日本もロシアに占領されるかも?」という人間さえ出てきた。

5、日本は清国政府に働きかけて、ロシア軍の満州撤退を働きかけた(英・仏・独も同意見であった)。ロシアは3回に分けて撤退すると約束し、第1回(明治35年10月)は実行されたが、第2回(明治36年4月期限)は実行されず、ロシアの満州や蒙古に関する対清要求は強引であった。一方、日露交渉において、日本は明治31年から、満韓交換論(ロシアの満州支配と引き換えに日本の朝鮮支配を認めさせる)を提案して来たが、ロシアは頑として受け入れなかった。日本国内では、東京帝大7博士をはじめとする対露強硬論が生じていた。その頃、西徳二郎(駐露公使・外務大臣・駐清公使等の経験者で黒田清隆周辺で外交を論じていた)のシミュレートはこうであった(佐々木隆著・明治人の力量)。『英独に対露干渉は望めない。日本単独で処理するしかない。対露戦になった場合の勝敗は予測できないが、仮に負けても、国運一時退潮の状を呈すとも我帝国の存亡には関すまじ・・朝鮮半島を放棄することになっても、本土が無事ならば十分再起できる・・』『もしも勝利して朝鮮我の保護に帰しても・・、保護するの困難・費用等の事を案ぜば格別の利益なし。ただ、列強の仲間入りという無形の利益はある。・・・その後の日露間の調整がうまくゆけば両国による東方分割が可能になる・・・』当時の、我が国の、経験豊富な高官、の考え方、にはこのようなものがあった。

6、ロシアからの回答遅延に業を煮やした日本側は、明治37年2月6日国交断絶を通告、8日仁川上陸、8日深更旅順攻撃、10日宣戦布告をした。当時も、奇襲作戦は国際的にもさしたる批難を受けなかった。この戦争開始の3年後、つまり明治40年になって、国際間でハーグ陸戦協定なるものが結ばれ、「宣戦布告のない開戦を禁じる」ということになった。なお、開戦2年前の明治35年1月に日英同盟が結ばれていた。『日露が開戦してもイギリスは参戦しない。もしもロシア側に加勢する国が出たらその時は、イギリスは日本に加勢する』という内容であった。

7、日本はかろうじて勝利した。戦費は18億2千6百万円(当時の一般会計歳出は2億5千万円)であった。増税・歳出削減で国民は大変苦労した。参加した軍人軍属108万人、戦死8万4千人、戦傷14万3千人とされる。・・・ポーツマス条約によって日本は関東州を租借し、満州の鉄道経営権・周辺の炭鉱経営権・森林伐採権などを得、鉄道守備の名目で満州に軍隊を駐屯させるようになった。・・一口で言えば、朝鮮問題では、日清戦争で清国を追い出し、日露戦争でロシアを追い出して、日本が完全に手に入れた。更に日露戦争で、日本は満州に資本と軍隊を進出させた。

8、陸軍1個師団は平時で1万人程度だが、日露戦争開始時は13個師団、終了事は17個師団であった。そして、戦後も軍拡が続いた。陸軍は平時25個師団・戦時50個師団を目標にした。朝鮮の単独支配・満州進出を果たし、当面の日本の目標は『列強としての地位の防御』におかれた。それは『勢力圏を確保する為に外周部で攻勢をとる。つまり攻勢防御ということ』であった。日清日露両戦争もその<攻勢防御>であったと言えようが、その結果、朝鮮・満洲南部を抑えて、本土への脅威が減って緊迫感が薄れた場合、その<攻勢防御>は少なからぬ危険を内包するものになる。果てしない自己肥大につながる危険である。国境を遠ざければ、安心感は増す・・やがてそれに快感を覚える・・が、外部との摩擦は著しく増大する。それはまさに帝国主義と言えるものになる。山県有朋が唱えた『主権線だけでは不可。利益線を持たねば』・・は、現実には、帝国主義につながるものであった。 

C、韓国併合へ、 1、日清戦争後の明治30年、朝鮮は国名を大韓(ダイカン)とあらため、大韓帝国(韓国)と称したが、日露間で満韓交換論が合意できない状況の中で、日本政府は明治34年に韓国保護国化を政策として掲げた。ここに言う保護国化とは、日本が韓国の外交権を奪うことである。そうなれば、韓国は、もはや、国際関係における独立国とは言い得ないものである。明治38年9月5日に日露講和条約(ポーツマス条約)が調印され、2ヶ月後の11月17日に第2次日韓協約が締結されて、日本は韓国の外交権を奪って保護国にした。明治40年には、韓国皇帝高宗が日本を非難したとして皇帝を退位させ、韓国軍隊を解散させた。伊藤博文が安重根に射殺され、韓国軍人は農民とともに義兵闘争に立ち上がり、日本はこれを武力弾圧し、明治43年に至って日本は韓国併合を実施した。これまで、河野広中・小川平吉・遠山満や山県・桂系の強硬派が韓国併合を唱え、伊藤博文は『韓国合併は厄介を増す、韓国の独立自衛を進め日韓提携すべき』と唱えて来たのだが・・・。併合に伴い韓国は再び朝鮮と改称された。

2、韓国を保護国・衛星国ではなく領土としたことは、緩衝地帯の消失を意味する。しかも日露戦争の勝利で、日本は関東州・満鉄を得た。日本は満洲・ロシアと直接に境界を接することになった。山県式利益線思考によれば、更にその外に勢力範囲を持ちたくなる。エンドレスになる。 

D、まとめ、1、広辞苑によれば<大国主義=国際関係において大国が自国の強大な力を背景にして小国を圧迫する態度>とある。大国主義=大日本主義である(以下大国主義と言う)。小国主義(=小日本主義)という言葉は広辞苑には無いが、端的にいえば大国主義=軍国主義・専制主義・国家主義であり、小国主義=産業主義・自由主義・個人主義である。・・・明治の初めの岩倉使節団は、英・米・独・仏・露・墺などの大国を見たほかにスイス・オランダなどを見て『スイスやオランダは、小国としての体制と精神に徹して大国の侮りも受けず、信義を持って国威を発揚しており、日本としてはもっとも見習いたい国だ』と書いている。・・が、前述の通り、明治政府は、早くから大国主義の気配を見せ、日清・日露戦争・韓国併合で大きく大国主義に踏み出したのである。

2、ところで、ロースシュタインは小国主義を「もっぱら自国の能力行使によっては、安全を確保し得ないことを自らよく認識している国家である。そして、自国の安全確保のために、根本的に他の国家、制度、過程、発展に頼らざるを得ないことをよく認識し、みずからの手段にのみ頼ることが不可能であるというこの確信は、同時に、国際政治に参加する他の諸国によっても、十分に承認されている国家」と言っている(田中彰著・小国主義)。太平洋戦争後の日本は、憲法の精神はもとよりとして、小国主義を標榜する国である。  

3、明治の初めにおいて、植木枝盛は『内には徹底した基本的人権の既定のうえに自由・平等を認め、外には万国共議政府の創設と宇内無上憲法を制定することによって平和を保持し、軍備の縮小ないし廃止を指向する国のかたち』を考えていた。・・・これは小国主義である。明治7年1月の愛国公党の「本誓」には、「人民の通義・権利を保全することで自主自由独立不羈の人民とし、さらに君主と人民の間を一体化し・・国家を繁栄させる」という主張が見られる。板垣退助・福沢諭吉などはこの系譜である。中江兆民もこう語っていた。『顧うに小国の自ら恃みてその独立を保つ所以の者は他策なし。信義を堅守して動かず、道義のある所は大国といえどもこれを畏れず、小国といえどもこれを侮らず。彼れもし不義の師(軍隊)を以て我れに加うるあるか挙国焦土となるも戦ふべくして降るべからず。隣国内訌あるも妄りに兵を挙げてこれを伐たず。いはんやその小弱の国の如きは宜しく容れてこれを愛し、それをして徐々に進歩の途に向はしむべし。外交の道唯是あるのみ』・・・例えば、これはスイスの生き方である。『彼れもし不義の師を以て我に加うるか挙国焦土となるも戦ふべくして降るべからず』という極めて厳しいスイスの行動である。・・・・『隣国内訌あるも妄りに兵を挙げてこれを伐たず』などは、<明治日本のその後の大国主義行動>を予見したような、そんな、小国主義論である。

4、「田中彰著・小国主義」には次に記述がある。『日露戦争後、日本の大国主義への批判としてはじまった内村(鑑三)の小国主義について、松沢弘陽氏は<1910年代から20年代にかけて少数の社会主義者や民本主義者のあいだに現れた小国主義と軍縮の主張の一つの変種として見ることができよう><そうした小国主義論の多くが、日本の産業立国を説いたのに対して、内村は、青年時代からの、独立自営の生産者による、農林水産立国の主張を変えていなかった。だから、大国アメリカにかわるべき、日本にとっての模範国はデンマークであり、オランダでなければならなかった><内村の小国主義は、世界のすみに小さくとじこもって、自らの幸福を楽しむ、といった孤立主義とは全く逆だった。国の広さからの点では「小」でありながら、世界にしめる位置のゆえに、世界につくす働きでは、「大」きく膨張することを期待した>・・・だが、時代をおし流す大国主義の波涛のうねりは、そうした表出すらも許さないものがあった。明治43年、秋水らはいわゆる大逆事件で検挙され(翌年死刑)、内に向けられた弾圧は、外に対しては韓国の義兵運動(武装蜂起)を抑圧して韓国併合の強行となった』

5、前に「端的にいえば大国主義は軍国主義・専制主義・国家主義であり、小国主義は産業主義・自由主義・個人主義だ」という三浦銕太郎の言葉を紹介したが、まさに、これらの主義は、対国内・国外の両政策に関連する。三浦氏は、明治44年に、既にそれを指摘している。その後の歴史・・現在まで・・がその正当性を証明している。そうして現在の日本は、憲法精神そのほか、小国主義に徹している。三浦氏には『国家主義は、・・・・』をも語ってもらいたいものだ・・・・・。

6、韓国併合前、伊藤博文韓国統監のもとで副統監をしていた曽禰荒助は、強烈な併合反対論者であった。『我ハ農商務・大蔵両大臣ヲナシ、能ク日本ノ財政ニ通ズルガ、此ノ上日本ノ貧乏国ヨリ多大ノ国費ヲ注込ム様ナ事ヲシテ何スルカ、又此ノ上日本ガ侵略主義ヲ顕サバ列強ハ何ト思ウカ』と述べている。これは帝国主義反対論的小国主義だし、統計数字をも用いて主張する三浦銕太郎的経済合理主義である。

7、現在与党を中心に『大国主義よもう一度』という議員が沢山輩出している。<『教育基本法改正・憲法改正・愛国心高揚』を唱え『歴史認識は学者にお任せ』と逃げた超無知超短期元首相><踏襲(フシュウ)・怪我(カイガ)・言葉日替わり首相><世界向けテレビ前居眠り会見元財務相><辻政信元中佐的嬌慢自民等選挙副責任者>・・そのほかいっぱいいる。が、この中に、一人の曽禰荒助もいない。三浦銕太郎もいない。後述する石橋湛山もいない。政治家としての、評論家としての、国民に対する責任感や、高度な知性や洞察力は、もう日本から消えたのか?いったいどこへ行ったのか?・日本国民極めて危うし。

8、日清戦争時には、それを「義戦」とした内村鑑三だが、日露戦争については、キリスト教の立場から反戦を唱えた。絶対的平和主義であり小国主義である。当時、ロシアが満州・朝鮮を狙って南下して来るし、国内は「それらの国(朝鮮・満州など)を利益線とせねば」という山県有朋以来の大国主義(的自衛論)が横溢していた中では、内村の主張は厳しい壁にぶつかるし、当時の国際環境下では、悲壮な覚悟も必要だった筈である。明治37年1月17日(日露開戦20日前)、同じ小国主義者であった中江兆民は『平民新聞』にこう書いている。「吾人は以上の理想を実現せしむるの順序として、先ず日本の国是を<小国を以て甘んずること>に在らしめんと欲す。大国を羨(ウラヤ)むこと勿(ナカ)れ、大国の民は何れも不幸なり、殊に大国たらんとして成りそこねた伊太利(イタリア)の不幸を思へよ。之に反して小国の民は皆幸福なり、瑞西(スイス)の人民、丁抹(デンマーク)の人民等を看(ミ)ずや。(田中彰著・小国主義)」・・・・・明治37年頃として、なかなかの見識であるが、当時としては、極めて厳しい覚悟を要したであろう。・・・105年後の今日では、歴史の経験を経、思想・国際環境も大きく変化している。改めて小国主義の意味を噛みしめる必要がある。

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