1、三郎「わしゃ、日曜日10時から10チャンネルのサンデープロジェクト見たんじゃ。あの<自己顕示欲の権化田原総一郎氏>が参加者の発言を封じて喋りまくるので有名な<不愉快番組>じゃ。じゃが参加者が割合優秀じゃったから我慢して見たんだ。中身は省略するが、その番組の初めに、<例の田母神事件も取り上げる>ちゅうもんじゃから、その時になったら他のチャンネルに切り替えるつもりだったが、結局、そいつはやらんかったんじゃ」 六郎「田母神事件というたら、あなたの言う≪とてつもなくショウモナイ事件≫ですね?」 三郎「そうじゃ。結局その話は出んかったがのう」
2、六郎「ショウモナイない事だが、黒幕や同調者は多いんじゃないですか?」 三郎「そうなんじゃ。学者・政治家(特に自民党)・評論家に黒幕が多いんじゃ。『昭和史・渡部昇一著・2005年刊』にはちょっと触れたじゃろうが?」 六郎「ハイ、聞きました」 三郎「渡部氏は<シナは満洲でない>ちゅうとる。ここまでは、まーエエが。続けて、渡部氏は『満州国は清朝のラストエンペラー溥儀が父祖の地に起こした国だ。文句のつけようがない。日本人は溥儀のその建国を手伝った。その過程で起こったのが満州某重大事件(昭和3年)・満州事変(昭和6年)であった』と書いておる。満州某重大事件とは関東軍参謀河本大作大佐による張作霖爆殺事件のことじゃが、この渡部説は、いったい、なんじやい??」
3、六郎「その単純化は、即ち<学者の老獪さ>というわけ?」 三郎「老獪とか卑怯とか・・そう見るしかないのう!『キメラ・山室信一著1993年刊』にはこうあるぞ。『そもそもなぜ満蒙という中国大陸の一部を他でもなく日本が領有することが正当化されうるのであろうか。この正当化論拠として持ち出されたのが満蒙は中国固有の領土ではないとする説であった。人種説であった。満蒙がたとえ漢民族固有の領土ではないとしても、それを日本の領土と直ちにつなげるのは飛躍があるし、この論法でいけば逆に満州、蒙古人が日本を占領しても抗弁できないはずである。・・だが満蒙領有化計画は満洲事変勃発後わずか4日にして独立国家案へと後退した。そのことは結局、石原ら関東軍参謀たちが用意した正当化論理だけをもってしては諸外国どころか、同じく満蒙問題武力解決路線を採っていて、立場的に最も近かったはずの陸軍中央さえも説得できなかった』・・・つまり、≪もともとは満州を占領するつもりだったんじゃが、他国との関係もこれあり、誤魔化して独立国にした≫、ちゅうこっちゃ。・・ところが、渡部さんは<シナは満洲でない>に始まって、<溥儀さんの満州建国を日本が助けた>と言うとるんじゃ。2005年になってのう。凄いのう!!」
4、三郎「もう一度言うぞ。渡部名誉教授さんは2005年に、<日本人は溥儀の建国を手伝ったんだ>ちゅうた。・・ところで、ここに『甘粕正彦乱心の曠野・佐野真一著・2008年刊』ちゅう本もある。こうあるぞ。『関東軍参謀として満州事変に直面した片倉衷に、≪満州事変機密政略日誌≫(現代史資料7<満州事変>所収)という1級資料がある。満州事変後の騒乱を中国人の仕業と見せかける謀略工作員として甘粕の名前が出てくる』とな。満州事変勃発の発端となった昭和6年9月18日の柳条湖鉄道爆破は、言うまでもなく、関東軍の板垣・石原両参謀がやらせたんだが、『その直後、甘粕正彦はハルビンに行き、侠客の子分たちを使って日本領事館やハルビン日日新聞・ハルビン朝鮮銀行支店などに爆弾を投げつけた』と書いてあるぞ。現地人の爆弾投擲に見せかけて、<北満の居留民が危ない>と思わせて、日本軍の北満出兵に関する口実を作ったんだ」
5、六郎「甘粕正彦は大正12年の関東大震災に乗じて、無政府主義者大杉栄・妻・甥(6歳)らを絞殺して井戸に投げ込んだ、あの元憲兵大尉ですね?」 三郎「そうじゃ。彼、有罪だったが、2〰3年で出獄し、フランスに派遣されていたが、昭和4年頃かな?、満州に渡って関東軍に協力しておったんじゃ。佐野氏は『甘粕は満洲事変を拡大させ、その後15年にわたる泥沼の日中戦争に引きずり込む一つの端緒を作った陰の主役だった』と書いておる。彼は後に満映理事長になっていたが、終戦時に青酸カリ自殺した。黒板に<大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん>と書いてあった。甘粕は、若い頃から東条英機氏に可愛がられたんだが(二人共同じように、大変な天皇崇拝者だったんだが)、満州事変から日中戦争に・・いや太平洋戦争にまで・・及ぶような、大ばくち打つのに加わった何人かの中の一人・・・かな?おかげで数千万人の日本国民が不幸に陥った」
6、三郎「脱線したが、佐野氏の著書に戻るぞ。・・『板垣征四郎は溥儀連行について<皇帝は営口に着かれ、甘粕が迎えに行き、その行方をくらますため、吉林行きと旅順行きの切符を一緒に買った>と当事者でなければ分からない事実まで明らかにしている』・・関東軍が<満州国建設>を決めた段階で、清朝最後の皇帝溥儀氏を引っ張り出したこと、それに最初から甘粕元憲兵大尉がかかわっていたことを示している。それからこうも書いてあるぞ。『また溥儀連行に直接関わった甘粕本人は、溥儀連行は本庄関東軍司令官から当座の資金として渡された2万円でまかなった、と述べ、湯崗子温泉の対翠閣に着いてから溥儀に次のような条件を提示したと語っている。≪湯崗子のホテルで、余(甘粕)は4カ条の誓約を皇帝に示した。それは、皇帝は①自分勝手に通信しないこと②政治に干渉しないこと、等であり、若し、これに違えば、即刻天津へ送り還すというものであった≫ここでも甘粕は有無を言わせぬ強硬派ぶりを見せつけている』・・・」
7、三郎「このあと佐野氏は、更に、次のように書いている。『溥儀に付き添った大陸浪人工藤鉄三郎が語った≪湯崗子に着くと、宿屋でどてらを着て、すっかりくつろいだ気分になった。翌日の朝、甘粕大尉が来て別室で陛下(溥儀)と面会し密談した。・・甘粕大尉は本庄軍司令官からのお見舞い金だと言って、3千円持ってきた。その金を陛下に使えということは、勝手な行動は許さないということ。つまり<お前はここへ来た以上は、生命は保証する。しかし、軍の言うことはすべて聞かなければならない>という意味だった≫と』」
8、三郎「佐野氏は、こうも書いている。『工藤は著書の≪皇帝溥儀≫のなかでも、<溥儀は軍の高圧的な態度に唖然としてしまった>、と述べている。こう書いている。≪私は、ははア、何かあったなと察して、ころを見はからって訊ねた。<何か秘密のことがありましたか><秘密のことはなかったが・・・>・・私に語った皇帝の顔色は、見るも気の毒なくらい憂いをふくんでいた。皇帝の絶望と落胆はいかばかりであったろうか、察するにあまりある。私も、あいた口がふさがらなかった。軍の横暴がこれほどだとは思わなかった≫と。』」
9、三郎「これらの記述は信憑性があるように思うぞ。渡部名誉教授はそれらを、『満州国は、清朝のラストエンペラー・溥儀が父祖の地に興した国であって、どこからも文句のつけようのない話である。日本人は溥儀のその建国を手伝った。その過程で起きたのが満州某重大事件であり、また満州事変であった』と、あっさり書いている。名誉教授ともあろう人がのう!」
10、三郎「満州国の実態についてはいくらでも語ることがあるぞ。『岸信介・原彬久著・1995年刊』には関東軍と岸との関係・・つまり日本の満州統制体制・・が書かれておるぞ。長々とやるのは面倒じゃから、その本から要点となる言葉をだけを抜き取るぞ。『関東軍は、言うまでもなく満州における絶対支配者であった。70万兵力を擁する関東軍司令官は関東庁長官と駐満全権大使を兼任し、したがってこの現地軍は、文字通り全満州に独裁的権力を行使しえたのである』『岸は2・26事件後わずか8か月にして(昭和11年秋)満州に渡るが、その岸を待ちかまえていたのは、もちろん関東軍である』『岸がまず最初に手がけた仕事は、何よりもまず満州国開発5カ年計画の実行であった』『満州国建国の理想である王道楽土、五族協和はいつの間にか色あせ、満州国は文字通り日本帝国主義の戦略基地として軍需用重工業発展の重責を負わされていく』『日立製作所・日産自動車・日本鉱業・日本化学工業以下130社、15万人を擁する日産の主力を満州に導入することが策された』『岸は日中戦争を、持論の国家統制経済遂行のためのまたとない追い風にした。日中戦争のなか、戦略兵站基地満州を前面に押し出した』『満州国はそれが一応独立した国家の体制を整えていたとはいえ、いかなる角度から見ても、現実には日本そのものであった。疑似国家と言われるゆえんである。そんな中で、岸と関東軍とりわけ東条参謀長との関係が表舞台とは別のところで、しかもアヘンをめぐって通じていたという仮説は十分なりたつ』・・・きりがない。ともあれ、満洲国の実態はこんなもんじゃった。渡部名誉教授のさっきの説明は、なんと!なんと!無邪気?・・いや単純化=老獪?。念のために言うとくが、岸信介氏は首相の座を放り出した安倍晋太郎氏のおじいさんじゃ」
11、三郎「話変わるぞ。・・・東京裁判にインドから判事として参加したラーダービノード・パール氏が『日本無罪論』を唱えたことは有名であるぞ。東京裁判の≪平和に対する罪≫や≪人道に対する罪≫が事後法であり、この裁判は、≪勝者の裁き・報復行為≫である、というわけじゃ。法律論として至極もっともじゃ。・・・事後法・・・あんたがある道路を通った。そのあと、≪この道路は通行禁止だ≫という法律ができて、あんたが罰せられた。・・・こりゃあ、どう考えても不都合じゃ。じゃが、日本は独立の時に、東京裁判の判決を受け入れておるから、今さら文句言えん。・・・それはそれとして、渡部名誉教授とおんなじように、このパール説を引用して『日本はなーんもおかしなことしてへん』ちゅう御仁がおるんじゃ」
12、三郎「『パール判事・中島岳志著・2007年刊』ちゅう本を読んだんじゃが、・・著者中島氏は『田中正明著・パール博士の日本無罪論』を批判しておるんじゃ。こう書いてあるぞ。『無罪という語は<国際法上の罪>に限定して論じなければならない。パールは判決書の中で<東条一派は多くの悪事を行った><日本の為政者・外交官・および政治家らは、おそらく間違っていた><自ら過ちを犯したのであろう>と言明し、日本の為政者に道義的責任があることを明確に示している』と書いておる。中島氏は≪田中正明氏が自分の著書では、そこのところをわざと抜かしている≫と批判しておるんじゃ。<無罪論は、勿論法律論に関してだけのことである。道義論は全く別だ>というわけじゃ。中島氏は、こうも書いてあるぞ。『更に田中は、パールが張作霖爆殺事件を<無謀でまた卑劣である><殺人という卑劣な行為だ>と論じ、満州事変を<非難すべきもの>、満州国建設を<手の込んだ政治的狂言>と厳しく批判したことを、すべて割愛している。さらに、南京事件やフイリピンでの虐殺事件を事実と認定し、<鬼畜行為>と厳しく非難している点にも一切触れていない』・・・」
13、三郎「田中正明さん、も、渡部昇一名誉教授さん、も、同じように老獪=単純化?いや、<単純化>だけじゃなく、<エエトコダケ取り>じゃな。こりゃ、学者としても人間としても、極めて卑劣な行為だ。・・・長くなるから今日は満洲事変などだけにしたんじゃが、渡部名誉教授さんの別の著書を本屋で立ち読みしたら、日中戦争について、『盧溝橋の発砲は中共軍が意図的にやったもの。日本の侵略行為でない』と読めたぞ。たしかに中共軍発砲説もあるが、歴史として確認されておらんのじゃ。他の歴史学者はみんなそう言うとる。渡部さんは平気で断定しちょるんじゃ。・・・学者的良心ちゅうもんは無いんかいのう?上智大学は渡部さんを名誉教授にし、学習院大学は、漢字がロクロク読めない麻生さんを卒業させておるんじゃ。・・・日本の大学も、・・ホンマにホンマに・・、落ちたもんじゃのう!!」
14、三郎「日中戦争の発端を、仮に、渡部氏の言うように<共産軍の発砲がきっかけになった>としてもじゃ、その後間もなく停戦協定ができたんじゃ。昭和12年7月9日午前2時頃じゃ。にもかかわらず、10日朝、部下に進撃命令を出して停戦を破ったのは、彼の有名な牟田口廉也連隊長だったんじゃ≪牟田口廉也ちゅうたら、太平洋戦争末期(昭和19年春)に無謀極まるインパール作戦を主導して、若い兵士たちを沢山無駄死にさせた(退却路には日本軍の白骨累々で、白骨街道と呼ばれた・・)大罪人中将じゃ≫。・・それから、日本陸軍の参謀本部内にまで日中戦争の泥沼化を嫌った停戦説があったのに、昭和13年1月16日に近衛首相が『国民政府を相手にせず』と宣言したんじゃ。<停戦交渉なんかせんぞ>ちゅうこっちゃ。発端の中国側発砲者は不明ながら、日中戦争がその後久しく続いたについては、日本側の動きも作用したんじゃ」
15、三郎「・・・さてと、田母神さんなんかは、渡部名誉教授とか田中なにがしの人となりを知ってか知らずでか??・・・もともと、『自衛隊員の士気高揚のためには、日本国は正しかったことにせんといかん』ちゅう思い込みがあるんじゃろうのう?。歴史を正しく伝えてこそ、国民は正しく行動するのにのう!!・・・思い出したぞ。戦争中、辻政信ちゅう弁の立つ大佐がおった。ノモンハン事件の時(昭和14年)は関東軍参謀であったが、独断で戦線拡大して大敗し、沢山の若者を無駄死にさせた。太平洋戦争初期(昭和16・7年)にもおんなじことやった。大罪人じゃ。それが戦後に衆議院議員を4期もやった。日本国民が選挙したからじゃぞ。・・・国民に人を見る目がないと、子孫がエライ目にあうぞ・・・危ないのう!!!・・・自衛隊幹部が牟田口廉也タイプであったり、辻政信的であったりしたら、エライコッチャで。60〰70年前の事実は、すなわち、今日再び起こりうることなんじゃぞ」