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2008年1月16日 (水)

権力の無責任・・・インパール作戦を例に

1、六郎「日曜日の朝は各テレビが政治問題など取り上げます。今朝見ました。感想は、<政治家の無責任。口先だけ>でした。中でも、財務大臣の経済や予算・・中でも道路特定財源の暫定税率継続など・・に関する無責任発言が目立ちました」 四郎「それが読めたあんたは、エライ!!!。日本人の一人でも多くが、言葉の偽り、を読み解かんならんのじゃが。・・・・なかなかのう」

2、六郎「<権力の無責任・・腐敗・・>は戦後60年続いていて、多くの国民が長年に渡って大きな被害を受けていますが、平和時のそれは、ジワジワ来て気がつかないのですね。誰かが、しっかり、数字をも用いて、指摘しないと」 四郎「そうじゃ。そうじゃ。これが戦争などなら、指揮官の無責任がすぐに結果として出るから目立ちやすいんじゃ」 六郎「太平洋戦争全体が、権力の無責任・・怠慢、腐敗・・で始まったと思いますが、個々の作戦でも、指揮官の腐敗がたくさんの部下を死に・・無駄な死に・・追いやったそうですね?」

3、四郎「例えばじゃ、東條首相・陸相は戦前に、<日米戦力比較>などを聞いて、“数字見れば、勝ち目は絶対無い”と知りつつ、“精神力がある”などと強弁して開戦に突き進んだんじゃ。東條首相の前の近衛首相時代から、例えば<車の生産台数だけ見ても、アメリカは日本の100倍ある>なんちゅうことは、当然、分かっておった。昭和16年の日米開戦前、既に日本は日中戦争で18万8千人余の戦死者を出し、中国の首都南京を占領しても、相手は奥地の重慶を臨時の首都にして抵抗、泥沼状態に入った。アメリカは日本に対して<中国からの撤退>を迫って来た。東條首相は『中国から撤兵したら日中戦争の成果を壊滅させる。満州国を危うくする。朝鮮統治も危うくなる。・・・戦死者に申し訳ない』ちゅうて、強気説を堅持した。山県有朋が『戦死者に申し訳ない』ちゅうて、関東州返還に反対したが、東條首相も同じ論法を使うたんじゃ。このへんのことについては、いずれ話すこととして、とりあえず、分かりやすい一作戦・・インパール作戦・・の話をしてやるぞ。太平洋戦争は昭和16年12月8日にはじまったが、インパール作戦実施は昭和19年1月7日に決まったんじゃ。もう、日本の敗色は濃厚になっておる時期じや」

4、四郎「太平洋戦争勃発から間もない昭和17年1月に、日本軍はビルマ(今のミヤンマー)に攻め入った。ビルマ経由で中国の昆明(重慶より更に奥地)へ英米からの援助物資が運ばれておったから、それを遮断する為じゃった。それに対して、航空戦力日本軍の10倍、地上戦力日本軍の3倍、と見られる英米中連合軍が反攻を試みる。そんな時期にインパール作戦が行われたんじゃ」

5、四郎「・・・南方総軍配下のビルマ方面軍の、そのまた配下の第15軍、ちゅうのがやった作戦じゃ。第15軍ちゅうのは三つの師団(31、15、33の各師団)一個師団の人員は、1万5千人ないし2万人からなっており、それやこれやで、インパール作戦参加人員は約10万人じゃったが、戦死傷病8万人、内死者3万人、と言われておる。完全失敗作戦じゃ。5ヵ月の間に、8割の兵員が無謀作戦で無為に死傷病したんじゃ。後でも言うが、日本軍が敗走した道は<白骨街道>と言われたぞ。あの『大消耗戦。乃木司令官は無能』と言われた日露戦争の旅順攻撃でも、『5ヶ月間、参加人員13万、死傷病6万、内死者1万5千』であったんじゃ。インパール作戦は、それを凌ぐ、歴史に残る愚劣作戦じゃな。{わしの勝手な計算・・損耗率=死傷病数÷参加人数×100}で言うと、旅順の46%に対して、インパールは80%じゃ。死者だけなら旅順11、5%、インパール30%じゃ。計画の粗雑さ・・・敗北・損害の予測可能性・・・から言うても、インパール作戦は最低じゃ。根底にあるのは≪権力の傲慢・庶民蔑視≫じゃ」

6、四郎「さっき、<昭和19年1月に作戦が決まった>ちゅうたが、これを推進したのが第15軍司令官牟田口廉也(ムタグチレンヤ)中将じゃ。その上司ビルマ方面軍司令官が河辺正三(カワベマサカズ)大将じゃった。この二人の名前覚えとけや。・・・牟田口司令官が<インパール作戦やるやる>言い出して、その話が上に上がって、大本営作戦部まで行った。その間、各参謀間で賛否両論あったが、反対が強かった。既に日本軍が占領しておったビルマから、西隣のインドに攻め入ってインパールちゅう地を占領しようちゅうこっちゃ。それによって、インドに動乱反乱を起こさせようちゅう作戦じゃ。反対論にもいろいろあったが<①ヨーロッパで イギリスはドイツに対して優位に立ち始め、インドに兵力を増強する余力が出て来ている②インパール方面の地形から見て、第15軍が進攻しても兵站・補給が出来ない。>などの反対意見が強かったんじゃ。問題は、特に、②じゃ。1500~1800メートルの峨峨たるアラカン山脈を越して10万の兵を送るのに、兵站・補給は、まったくすべなし、の状態じゃった。つまり、弾薬・兵器は勿論の事、食料・被服・医薬品などを前線に送るすべを日本軍は、まったく持っておらんかった。これは参謀たちも司令官たちも、みんな認識しておったんじゃ。当時大本営参謀じゃった高山信武氏が本に書いておるぞ(参謀本部作戦課の大東亜戦争)」

7、六郎「それなのに作戦開始した?」 四郎「そうじゃ。事情知りながら河辺大将も、身を挺して反対せんかった。何よりも、最高権力者の東條首相兼陸相兼参謀総長が<やれやれ>ちゅうたんじゃ。・・・①牟田口中将は東條首相のお気に入りの子分じゃった②当時日本側についた自由インド国民軍最高司令官チャンドラ・ボースと東條氏が意気統合しておった(政治的判断があった)・・・決断時の権力者の頭に、10万日本兵の生死・運命などがどこまであったか?・・・わしゃ、作戦の成否・将兵の損耗などは、権力者の脳裏には、あったとしても、片隅に、塵ほどあっただけ、と思うぞ。・・・これが何時の時代でも、<権力者が陥る無責任・怠慢・腐敗>なんじゃ」

8、四郎「さて、①昭和19年3月8日~15日、第15軍のインパール進撃開始、苦戦の連続じゃった。②第33師団長柳田元三中将は牟田口司令官に対して作戦中止の意見具申をした為に5月15日に罷免された。③5月上・中旬、参謀次長秦彦三郎中将が現地に行き戦況視察。帰京して東條参謀総長に<作戦の見通し暗し>と報告したが、東條参謀総長は<断固攻撃続行>を指令した。わしゃ、なんかの本で読んだぞ、インパール作戦の最終認可は、<東條総長が風呂に入りながらやった>そうじゃぞ。勿論それまでに作戦の中身は聞いておったんじゃろうが、それにしても???じゃ。権力者の奢りじゃな。兵士の命の重さも、風呂の湯の浮力で、極めて軽くなっておったんじゃないかい?」

9、四郎「前から続く・・④佐藤幸徳中将麾下(指揮下)の第31師団は、食料等の補給もなく、独断退却したために、佐藤師団長が罷免された。5月下旬の事じゃな。⑤6月に入り、戦況最悪となり、遂に牟田口司令官が後退を決意し、河辺方面軍司令官・南方総軍・大本営の認可を得て、7月10日、退却命令が下達された。7月中旬に退却作戦開始。高山信武大本営参謀は、その頃、連絡のために戦場に赴いたが、『屍体の散乱、戦傷者の群れ、そして、はうようにして後方へと退き下がる兵隊を見て、敗戦の惨めさ、痛ましさを身にしみて感じた』と記述しておる。前線の悲惨な状況は、続いて話すが、・・・作戦開始2か月後に第33師団長罷免、3か月後に第31師団長罷免。4か月後に退却命令。峨峨たるアラカン山脈で、時は雨季。まさに白骨街道の悲劇は、作戦開始前から充分予測出来ておったんじゃ。これを、<権力の傲慢・無責任>と言わずして何と言うか!!!もう一度言うぞ、『4ヶ月間の作戦で、参加兵力10万人の8割・・8万人が戦死傷病したんじゃ。内戦死3万人じゃ』・・・言わずもがなじゃが、これを期に英印軍は続々とビルマ領に進撃を始めたんじゃ」

10、四郎「さて、ここで、牟田口・河辺二将軍について、いささか触れておくぞ。こりゃあ、大分昔、あんたに話した記憶あるが、どうせ、あんたはすっかり忘れておると思うから、インパール作戦のことを話す今、もう一度繰り返すんじゃ。よく聞けよ。牟田口・河辺将軍は今で言えば、なんとか大臣に相当する権力者なんじゃ。東條氏は今で言えば福田首相じゃな。戦時・平時の区別はあっても、権力者の思考・行動は、まったくおんなじじゃ。そう思うて・・権力学と思うて・・聞けよ。そうして、是非、<ピポリザシオン>を排除して欲しいんじゃ」

11、四郎「半藤利著『昭和史』にあるぞ。インパール作戦中の昭和19年6月6日、牟田口15軍司令官が上司の河辺ビルマ方面軍司令官と会談した。牟田口『部下の師団長がだらしない。クビにする』・・河辺『そういうコトでは作戦はうまくうまくゆかぬぞ』・・二人は睨み合った。・・・ちゅうこっちゃ。さっき言うたように牟田口司令官は、既に2人の師団長をクビにしておった。焦りの牟田口、責任逃れの牟田口、すべて配下の師団長のせいにするんじゃ。しかも、次々敗走して白骨の山を築いておる将兵のことなんか、まったく意に介しておらん。この直後、牟田口は退却を命ずるしかなくなったんじゃが、すでにインパール街道は白骨街道になりかけておったんじゃ」

12、四郎「さて、<河辺・牟田口睨み合い劇>は、7年遡るぞ。昭和12年7月10日じゃ・・・3日前の7日の午後10時過ぎに中国北部盧溝橋付近で演習中の日本軍近くに数発の実弾が飛んできた。連隊長牟田口廉也大佐が、即、独断で中国軍攻撃命令出した。が、程なく、日本軍特務機関の交渉で停戦協定が成立した。ところが、牟田口連隊長はまた、独断で部隊に前進命令を出した。かくして、昭和20年8月15日まで続く日中戦争・・というより・・昭和16年12月8日に始まった太平洋戦争の前哨戦になった・・日中戦争が本格的に始まったんじゃ。牟田口連隊長の上司河辺正三旅団長が来て、牟田口の独断をなじった。・・・かくして河辺・牟田口の睨み合いじゃ」

13、四郎「河辺・牟田口・・どっちも陸軍大学出ておる。大将・中将になっておる。アホではなかったじゃろう。が、独断や強引や無責任で、作戦を強行する・・上司でありながら睨み合いだけで阻止せぬ。・・どっちもどっち。・・無責任・人命軽視・傲慢・・・じゃ。二人が、戦死300万、戦災等数千万ちゅう大不幸を日本国民にもたらした根本原因作ったんじゃ。勿論、そのほかの少なからぬ政治家・軍人たちの傲慢・無責任が、それを阻止せんかったんじゃ。取り返しつかぬ(人生は一度しかない)大被害を受けたのは庶民ばかりじゃ。今もおんなじじゃぞ。天唾愚民たちよ」

14、四郎「元陸軍主計中尉平久保正雄著『真実のインパール』から前線将兵の苦難を綴るぞ。まず、インパール作戦最大の難点は兵站補給のお粗末さにあった。つまり、兵たちの食料・医薬品・被服・弾薬などを後方から輸送する事は最初から無視されておった。<自分らで食料見つけて、精神力で戦え>ちゅう作戦じゃった。いわば、兵(庶民)軽視・蔑視作戦じゃったんじゃ。勿論、日本軍航空機の援護などなし。相手には飛行機・戦車・大砲が豊富だのに。・・・じゃ」

15、四郎「『各人の携帯食料は20日分。主食1日6合、塩・砂糖・粉味噌・粉醤油・缶詰・乾麺包・・・各人最低50キロ担ぐ。・・・大隊ごとに駄牛部隊を編成し、20日分の携行糧秣・弾薬・通信機などを輸送した』『パンパパ(バンコックのやや西)以降は、携帯食料以外はすべて、逐次占領する敵倉庫に残置の糧秣をもって作戦を進めるという無責任さ』『夕刻近くになってから炊事下士官から、この日の部隊在庫状況は、翌日の昼食までしか主食がないということを聞いた』『象や牛を使って輸送した』アラカン山脈では、その牛などが転落したんじゃ。『3月15日チンドウイン河渡河開始。敵はすでに日本軍の渡河計画を熟知していて、渡河を自由にやらせておき、後方のビルマ縦貫鉄道沿線に空挺部隊を降下させて、後方撹乱及び輸送の妨害に着手していた』」

16、四郎「『かって、英国の某参謀が、アラカン山脈を越える軍隊はかならず敗れると予言したという』『1時間に3分間の休憩のみで、夕方は15分の炊飯の時間が与えられた。・・食事の時間は別に与えられず、3分間の休みに適時、各自で食べる。・・大隊長のみ乗馬であった』『15分の炊事時間でさえ、谷底まで水を探しにいくのが大仕事であった。ときには苦力に太竹をさがさせて、竹をきって節と節の間にたまっている水を使った』『日本軍特有の肉弾突撃に対抗して、自動小銃なる新兵器が英印軍一般で使用され、突撃のさい、至近距離で連発小銃のこれで対抗するため、わが軍には思わぬ損害となった』『兵たちは敵の乾パン、ミルク、砂糖、コーンビーフ、チーズなどを、珍しそうにひじり食っていた』」

17、四郎「『コヒマに到達したが、そこに待ち受けていたのは、兵站線をもたない軍隊の約2ヶ月にわたる長期持久戦であった』『歩五八(部隊)に配属となった山砲の射ちだす弾丸は、日にせいぜい40発であった。・・・わが正面の敵の砲兵力は約200門といわれ、日に発射される弾丸数は4万発以上といわれた』『負傷者は山間の地表がすこしくぼんでいるところに、担架のまま放置された。最初の手当をしてもらうまでに、悪い時には10日もかかった。・・・銃傷の患者を10日も放っておけば、傷口は絶対に腐ってしまうので、悲惨な事は言語を絶するものがあった』『5月に入って、彼我の状況が一変した。英軍の戦車が大々的に戦場に出現したからである。日本軍でこれを撃ち壊せるのは、山砲の砲弾のみであった。戦車攻撃のために作られた歩兵のもつ速射砲では、敵戦車の鋼板にあたるとはね返ってしまった』」

18、四郎「『5月の終り。アラカン山脈は雨季に入った。谷間の地溝に壕を掘って入っている兵たちは、籾つきで忙しかった。日々食べる分は、各自が鉄帽や飯盒でつくほかなかった』『コヒマ攻略、インパール街道の封止を担当した第31師団では、作戦に参加した兵力約1万5000人のうち、作戦間に7500人が死亡(ただし戦闘による戦死者、戦傷死者が約4000人、飢餓と疾病による戦病死者が3500人)、戦傷、戦病の患者となって部隊を離れた者が4500人となり、部隊としてチンドウイン河に達した者は、残りの3000人に過ぎなかった』『有名な佐藤師団長の抗命事件も、このような戦術的に狂った軍に撤退の決意を促す意図をもって、師団長が独断で撤退に踏み切ったものと思われる』・・・佐藤師団長の独断と、それを咎めた牟田口司令官が、みずからしばしばやった独断、の間には、決定的な違いがある。<心の違い>じゃな」

19、四郎「『戦傷、戦病後なんら充分な手当も受けられず、ただ死の直前にあったこれらの患者は、マラリア、脚気とアミーバ赤痢で、<衰弱しきった健兵>と、呼ばれる戦友がかつぐ担架の上で、戦友に申し訳なく、かつ自分の苦しみにも耐えかねていた。モンスーンの季節となった泥んこの道程で、<頼むから、思い切って担架のまま、谷に投げて死なしてくれ>と叫ぶ光景を、何度も見た。担いでいる方の健兵も、しだいに歩けぬ患者と化し、自決する者、みずから部隊から離脱する者が日を追って続出するという、戦史上でもまれに見る惨劇となった』」

20、四郎「『アラカンの雨季というものは、昼も夜も大量の雨が風とともに降り続けるので、携帯天幕などで充分に雨を避けて寝るなどとうてい不可能であった。疲労、衰弱し切った身体を、泥んこの地上に木の葉などを敷いた上に横たえて、ずぶぬれの天幕をかぶって寝た』『副食に至っては、生き残り少数となった牛が疲労して歩けなくなったのを殺して、その肉片を、各自が携行して、休息時にかたい肉を焚き火で焼いて食べた。山中の竹林から掘ったタケノコを、米も副食もなくなって、これだけで数日間の空腹をしのいだ』」

21、四郎「『路上で見る病者と飢餓死の者の数が増加して行った。道は登り坂と下り坂の繰り返しであった。行軍路上、不思議と坂を登りつめたところに、かならずといってよいほど死期を異にした死体がいくつもあった。わりに死後間もない死体を見ると、やっと登りつめた所で背嚢を背負ったまま、他の死体の背嚢をささえにして坐りこんだ直後に、他界したように思われる。今や前途の望みもなく、疾病と衰弱で動けぬ身体を、気力一つでここまで歩いて来た者が、極限まで来ると他の死体の霊にひかれて他界するのだなあと思われた』『体力を消耗しつくした将兵が、徒歩で渡河するのであるから、川中でちょっと膝を曲げたり、身体のバランスをうしなうやいなや、流れにのみ込まれてしまう。叫ぶ声も気力もなく、たちまち怒涛に消されて聞こえなくなる』」

22、四郎「『熱帯潰瘍について。将兵の中には直径5センチほどの穴が手や脚にできて、飯盒や鍋で煮たガーゼを穴のなかに詰めこんでいる。医薬品が欠乏し、襦袢や袴下の切れ端を代用するようになった。この地方の虫が原因というが、皮膚の清潔が無視される戦争環境も大きな原因であった』『村落のはずれにある寺院の床下に、部隊から取り残されて病気と飢えで死ぬ寸前にある兵士が、一人で苦痛にうめいている情景をあちこちで見うけた。このように死線をさまよう兵士たちが、期せずして寺院の床下に集まっているさまは、だれ一人かまおうともしなかった』」

23、四郎「『腐敗した兵士の死体をもっとも多く見たのも、この山中であった。体力を消耗し尽くして無理に行軍をつづけた兵士たちが、坂をのぼりつめたところで、背嚢を背負ったまま仰向けに地面に腰をおろして休むうちに死んでしまったのである。・・また、死んで2~3日がたって、水を含んで大きく腫れ上がっているものもあり、蝿のような虫が無数にたかっている。死んで2~3時間しかたっていないと思われるのは、一見すると、病兵が休息しているように見えた』『思えば、戦闘間に天皇陛下の万歳をとなえて死ねた将兵は幸福であった。それに反し、ここに死んでいる兵士たちは、おそらく世の無情を思いながら、苦痛にせめたてられ、最後には母の名を呼んで逝ったことであろう』」

24、四郎「『他の2名とともに、無断で8キロほど離れた集落に挑発にでかけ、所期の物資を獲得して3人が村を離れようとしたとき、付近の2~3ヵ村の屈強な男たちが、隠れていたパゴダの陰から突然にあらわれて襲ってきた。3人のうち1人しか小銃を持っておらず、一目散に逃げ出すほかなかった。・・3人は惨殺された。・・・・われわれは、シャン人に対する敵意とともに、かってな徴発のむくいをつくづく感じ、敗残軍のみじめさを噛み締めていた。夕刻、道路上に山砲2門を据えて砲撃し、全員で村を襲撃、全物資を略奪した。できるだけ小銃や機関銃で住民を殺したうえで、村落を焼き払ったことを、後で聞いた』『土に起き土に寝る将兵の体の色も顔色も、黄色、青色、土色を混ぜたような色で、街路に見るルンペンか乞食のようであった。栄養の偏頗とビタミン不足、連日の過労が主因である』『兵士たちが渓流を見下ろしている。何事かと私も立ち上がって見ると、渓流の中に兵隊の死体が流されていた。人々はただ見ているだけで、なんの行動も起そうとしない』『山地に隠匿された米の倉庫を発見した。籾(モミ)倉だ。・・これを各自が鉄帽で搗(ツ)いて精米するのだが、大変な仕事であった。雨季のため湿気を吸った籾はなかなか米にならない。鉄帽の中に5合の籾を入れて、棒切れで搗いて精米をおえるのに、2時間はかかった。鉄帽を持たない者も相当にいたので、彼等は飯盒に籾をいれて搗いた』」

25、四郎「いささかな長く引用した。何万の将兵が、雨季のアラカン山脈をうろつき、寝そべり、餓死して行く。死体は腐敗にまかせられる。こんな状況を、軍司令部にいて、糧秣の砂糖で作った汁粉を食べ、酒を飲んで参謀たちと談笑する牟田口司令官は想像できただろうか?想像しようと思っただろうか?昭和20年1月、牟田口中将は陸軍予科士官学校校長となり、将校養成の責任者の地位についた???・・・司令官は今日の権力者である。山中の将兵は平時の今日で言えば、削られた医療費で病院に行けなくなった庶民じゃ。リハビリを受けられなくなった身体障害者じゃ。年若いワーキングプアーじゃ。引用になかったが、敗走する日本将兵は、英軍航空機の銃爆撃を避けて、夜間しか行動できんかった。日本軍には航空機の援助は皆無じゃった。英軍には戦車・大砲・自動小銃もあった。≪精神力で戦え≫・・・これが権力者たちの、傲慢・無責任の声じゃ」

26、四郎「・・・自民党長期政権が60年間に800兆円の国の借金を作った。特に、実用性を越した過剰投資の道路を全国に作った。過剰投資は、<税金無駄使い→建設会社過剰利益→建設会社から政治家へのカネ流れ・票流れ>となった。この<美味い汁の味>は忘れられん。じゃから、道路特定財源、つまり、<税金の中から道路予算を先取りする>ちゅう暫定措置を、この4月から、更に10年続けようとする(やめたらガソリンがリッター25円下がるのに)。暫定措置なんてウソッパチじゃ。30余年続けて来て、更に10年やるちゅうんじゃ。恒久措置化じゃ。権力側=与党側の政治家にとって、極めておいしい道路予算優先獲得策をさらに10年続けようとするんじゃ。道路財源優先獲得の為の暫定措置をやめて、必要な道路建設も、必要な福祉も、必要な医療も、必要な教育も、・・・すべてその年の財源の中で、公平に比較選択して配分すべきじゃろうが。なんで、自民公明政治家どもに(土建会社にも)おいしい制度を続けて、福祉・教育・医療などなどを圧迫する制度を10年間続けんならんのじゃ。ガソリンが25円下がるが、そんな事より、はるかに重要な意味があるんじゃぞ。≪都知事が、これから3500億円の施設費かけてオリンピック誘致を目論んで、庶民を(弱者を)見向きもせん≫ちゅうのも、まさに平時インパール作戦じゃ」

27、四郎「・・・もう一度言うぞ。道路建設する、それも、必要以上にカネ(税金)浪費して、・・高く払うて、・・建設会社に儲けさせる。それが与党(自民公明)政治家に流れる。・・こりゃあ、与党の、彼等政治家にとって、こたえられんわなあ。一見合法的な税金の詐取じゃからのう。それだけじゃなくて、建設会社は社を挙げて選挙の応援する。儲けさせてくれる与党政治家じゃからのう。・・・地元の与党政治家ちゅうもんは、国会でたいしたことしておらんでも、『私が、地元に道路建設をもたらしたんです』と宣伝するもんじゃ。一応道路族に入っておけば、建設会社も地元民も『あの先生に任しておけば道路が地元に出来る』と信じてしまうんじゃ。・・・・・地元は、・・贅沢過ぎる、車が走らん・・そんな道路でも、<日本人全員が払った税金使うて、俺たちの所に道路できれば>、そりゃあ、都合エエ、便利じゃ、から、喜ぶわなー。・・・・・じゃから、暫定措置(つまり道路予算先取りの為の一時的措置)を、また10年延長じゃ。こんな事を長年やってきたから、ほかの目的の為に使う国のカネが不足して借金を重ねて、とうとう、800兆円の借金つくってしもうたんじゃ。いわば、≪この暫定措置続けて、道路予算を優先的に使うて、与党政治家を儲けさせ続けて来たから、60年間に800兆円ちゅう先進国第一の国の借金作った≫んじゃぞ。・・・・・インパール作戦を推進した牟田口司令官たち・・・おのれ功名・昇進のために無謀作戦を推進して多数の将兵を死傷させた、しかも、陸軍予科士官学校校長になってのうのうとしておった、そんな権力者たち・・・とおんなじじゃないかい!!!」

28、四郎「800兆借金のつけは、今や庶民(特に社会的弱者)を痛めつけておる。・・・インパール作戦で、豪雨下のアラカン山脈をさまよい、白骨化して逝った将兵のようにじゃ・・・しかも、首相たる福ちゃんも道路財源の暫定措置10年延長を阻止しようとしておらん。・・・ちゅうことは、インパール作戦を更に続けよう、ちゅうこっちゃ。・・・800兆円の借金を減らすどころか、増やしかねない作戦を続行しようちゅうわけじゃ。・・・昭和19年7月10日に、とうとう、退却命令を下達した牟田口司令官以上の、無謀・エゴ・傲慢権力者に堕そうとしておるんじゃぞ。・・・・・政権早期交代しかないのう。そんで、5~6年すれば、また<民主党?政権>を交代させてお灸すえんならん。・・・それが権力じゃ。エゴ権力じゃ。東條首相兼陸相兼参謀総長は、東京裁判で罰せられたが、今の福ちゃん以下の政権担当者たちに対しては、<政権交代ちゅう罰>しかないんじゃ」

29、四郎「800兆円借金のつけは、今や、庶民に厳しく襲いかかっておる。福祉切り捨てや増税じゃ。政府が医療費の支出を厳しくしたために、病院を追い出される弱者(そのつらさ、想像を絶するぞ)が増えつつある。医療費アップで、治療を諦めざるを得ない患者が増えておる。費用アップで、リハビリを諦めざるを得ない身体障害者が増えておる。介護保険実施以来8年、在宅介護もまったく進んでおらん。・・・医療費が上がっても、介護制度が不充分でも、年金運用の怠慢で長年納めた年金が戻ってこなくなっても、国会議員や二世・三世政治家には、いたくも痒くもない。彼等は年4000万円近い歳費等が払われ、国会議員の年金制度は、国民のそれとは別に、チャンと運用されておる。家・財産がチャンとあって、介護もおのれでやれる。・・・今も、日本には、東條首相・陸相・参謀総長以下、南方総軍司令官・ビルマ方面軍司令官・牟田口第15軍司令官たちが歴然とおる。そうして、日本国民は、アラカン山中に追いやられた兵士たちじゃ。・・・あらためて認識せよ。権力ちゅうもんの傲慢・庶民蔑視・無責任・卑怯未練ぶりを」

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