1、三郎「今年4月1日の文芸春秋で、昭和史家・半藤一利氏が『日露戦争は間違いなく日本の自衛戦争と言えるでしょう』と述べていた。・・一方、同じ4月1日刊行の『世界史の中の日露戦争』で、著者山田朗氏は『日本側からすれば自衛戦争を建前とした日露戦争ではあったが、講和会議に日本が出した条件から見て、<日露戦争が朝鮮の支配と南部満州を日本の支配範囲として確保するための戦争であった>ことが分かる』と述べている。・・つまり、日露戦争についても『自衛か?膨張か?』と、その解釈が分かれている。だから、ここでその歴史をふりかえってみる意味は充分にあると思うぞ」
2、三郎「日清戦争の勝利で、日本は清国の影響を排除して朝鮮支配を確実にしたと思われた。・・・ところで、戦後、敗北した清国に対する欧米列国の侵略はすさまじくなった。前に述べたが、イギリス(威海衛)・ドイツ(膠州湾)・ロシア(遼東半島)・フランス(広州湾)の租借などがそれだ。そんな中で、ロシアは、更に、満州(清国東北部)の独占的支配と朝鮮への進出をも、強く求めたんだよ。それは、まさに、日本の意図と対立するものであった。そこで、その頃、日本は、ロシアに対して<朝鮮に対する日本の優越権をロシアが認めれば、満州をロシアの勢力範囲と認める(満韓交換論)>という提案もしたんじゃが、ロシアはそれを拒否したんじゃ。遼東半島(旅順・大連)は勿論のこと、満州も朝鮮も、みんな欲しい、ちゅうこっちゃ」
3、三郎「日清戦争後3年くらいの間にロシアは朝鮮で様々な権利(居留地・電信線保護のための駐兵とか、軍事・財政顧問の送り込みなど)を獲得したから、折角日清戦争で得た日本の成果(朝鮮の優越的支配)は、殆ど消滅したんじゃ。朝鮮支配について、日清戦争で清国を排除したと思うたら、その後、忽ちのうちにロシアというライバルが現れた、ちゅうこっちゃな。・・・それから、ロシアには、<沿海州のウラジオストック(シベリア鉄道)と、清国から租借した旅順・大連(東清鉄道)とを結ぶ交通線を確保する為に朝鮮北部が欲しい>、という魂胆もあったんじゃ。地図を見てみい。ウラジオストックと旅順を結ぶ直線は朝鮮北部を通るんじゃ。・・一方、朝鮮の高宗国王は日本からの圧力を緩めるために、ロシアの力を利用しようとした(両勢力を対立させようとした)んじゃが、そんな中で、国王は、<あくまで朝鮮は自主独立の国である>ということをアピールするために、明治30年10月に、国号を大韓帝国と改めたりもしたんじゃぞ」
3、三郎「明治政府の中に、早くから、北に向かう膨張政策(北進論)があったんじゃが、勿論、その際の最大の敵はロシアじや(ロシア脅威論)だった。指導層の中には、①イギリスと組んでロシアに対抗しよう(対英協調論・対露強硬論:山県有朋・桂太郎・山本権兵衛ら)、と、②ロシアとの間で<朝鮮は日本、満州はロシア(満韓交換論)>という合意をしよう(対露協調論:井上馨・伊藤博文ら)と、が、あったんじゃが、満韓交換論はロシアに拒否されてしもうた。・・・明治35年1月に日英同盟が締結された。ここでは、<日本の、韓国と清国(南部満州)における特別な利益>、<イギリスの、清国における特別な利益>を相互に認め合ったんだ。そして、更に、<日本がロシアだけとの戦争に入った場合には、イギリスは厳正中立を守る(だが、例えば、日本がロシア・フランスと戦争に入ったならば、イギリスも日本側で戦う)>という事を取り決めた。・・・当然、日本には日露戦争が視野に入っていたし、イギリスには、<極東でロシアに対抗するために日本を利用しよう>という魂胆があったんじゃな」
4、三郎「朝鮮に関する日露対立の話はしたが、次は清国についてじゃ。日清戦争(明治27・8年)後の英独仏露などの清国進出の中でも、ロシアは特に積極的であった。早くから満州に数万人の人間を送り込んで鉄道や都市を建設したりした。勿論軍隊も送り込んだ。清国では、各国の進出に対する国民の反発が起こった。義和団事件だ。これを抑えるための英仏独墺露米伊日八か国連合軍が清国に送り込まれた。この時、ロシア軍は16万ともいわれる大軍を送り込んで満州各地をも占領したんじゃ。そんな中で、清国とロシアの国境を流れるアムール河沿いのブラゴヴェシチエンスクでロシア軍が清国人3000人を虐殺するという事件も起こったぞ。・・・ともあれ、義和団事件をきっかけにした出兵は、日露の対立を激化したんじゃな。ロシアは兵力を引かんかった。こりゃあ、同じく満州を狙う日本にとっては大いに面白くない。・・・日本では山県有朋を中心にして明治33年頃から日露戦争を意識し始めておったが、それが段々現実のものになっていったんじゃ」
5、この頃、清国の『申報』は書いておる。『ロシアにはすでに領土併合の謀があり、日本もまた、鋭くすきをうかがっている様子がある。他日、両国が中国を欲しがることで、突然戦争が始まり、必ずや中国の辺境が戦場となるだろう。日本がロシアに勝とうと、ロシアが日本に勝とうと、中国はいちばん先に災難を被り、人民はますます耐えがたい塗炭の苦しみをなめることになる』と。・・耐えがたい不安であった筈じゃな」
6、三郎「明治36年5月、陸軍参謀本部では『まだ満州のロシア軍は十数万人で、東清鉄道も南満州支線までは完成しておらず(事実はこの年7月1日に完成した)、急速な兵力増強は困難。要塞陣地の構築も進んでいない(事実は、旅順要塞の建設が進んでいた)。早期に開戦すれば有利だ』として早期開戦論を唱えた。陸海軍幹部や外務省幹部も同じ意見を唱えた。6月10日、東京帝国大学の戸水寛人(トミズヒロンド)・小野塚喜平次ら七博士の対露強硬意見書が桂首相に出された。これが24日に『東京朝日新聞』に掲載されて世論をもりあげた。こんな中で、幸徳秋水・堺利彦・内村鑑三たち社会主義者らは明治36年11月に平民社を設立し、平民新聞を発行して非戦論を唱えた。が、大勢の前にかき消された」
7、三郎「明治37年2月6日に陸軍の先遣隊が佐世保で輸送船に乗り込んで、8日未明には朝鮮の仁川に上陸した。8日に、海軍は旅順港外のロシア艦隊を攻撃した。10日、日本はロシアに宣戦布告した。日本は韓国政府を制圧下に置き、朝鮮半島から南部満州に至る地域を確保した。一方、中国の遼東半島に上陸して、旅順・大連から奉天付近までの地域でロシア軍を破った。日露戦争の戦場も、日清戦争同様朝鮮と中国であった」
8、三郎「明治38年3月10日、奉天付近で日本軍は勝利したが、既に砲弾・銃弾をほとんど消費し尽くしロシア軍を追う余力はなかった。また、奉天会戦までで、日本軍は歩兵部隊の中心である中隊長(大尉)・大隊長(少佐)クラスの将校が欠乏し、戦闘能力は限界に達していた。むしろ、ロシア陸軍は、敗退を続けたとはいえ、まだ戦闘を続ける余力があった(ただ、海軍では、5月に、日本の連合艦隊がロシアのバルチック艦隊を撃破した、が)」
9、三郎「6月1日、高平駐米公使がルーズベルト大統領を訪ねて講和斡旋を依頼した。英米仏独などは、ロシアが海軍力を失ってライバルでなくなったのであるから、せめて、<その陸軍力を残したままにしておいて、おのれの陣営に引き込もう>、と考え、講和を望んだ。また、6月12日付のフランス紙『ル・タン』は『この戦争が朝鮮と満州の勢力範囲をめぐる戦争で、自国領土の争奪でないのだから、領国とも深手を追うことなく解決できるであろう』と、適格な見方をしていた」
10、三郎「講和会議は8月10に始まるのであるが、その前の7月に日本軍は比較的容易にできる樺太占領を行った。これの結果、講和会議で樺太南部の割譲になった。前に言うたように、日本の戦闘力がぎりぎりの状態にあったのだから、ロシアの抵抗の強い賠償金を断念するしかなかった。が、一応、日本は<朝鮮の支配権を得、満州からロシア軍を撤兵させて関東州や満鉄を手に入れ、更に樺太南部を手に入れた>んじゃ」
11、六郎「日本国民には、講和の頃に、<陸軍の戦力がギリギリである>ということを知らされていなかったから、講和で<領土割譲が少なく培養金がゼロであること>に、国民が不満を持って日比谷焼打ち事件が起こしたんでしたね」 三郎「その通り。講和調印は9月5日だったんだが、その少し前に、『タイムス』紙が『日本が賠償金を取らぬのは日本古来の武士道精神からだ』と書き、これがイギリスから日本に伝えられて日本の新聞を硬化させたから、国民の怒りはますます大きくなったんじゃ。あ、そうそう、105年昔のこの頃、イギリスは全植民地とロンドンとの間に海底ケーブル網を完成させておった。日本からの情報は長崎ー上海間、長崎ーウラジオストック間に敷設された海底ケーブルで全世界に伝えられたんじゃ。地上の有線電信網と接続されて、モールス信号で伝えられたんじゃな」
12、三郎「日清戦争での日本側死者数は約2万名と言われたが、日露戦争では約8万5千人とされる。勿論このほかに、それぞれ20万人前後の傷病者がおった筈じゃ。これらの被害者は一般家庭の若者じゃ。そうして、両戦争の前にも間にも、日本は軍備拡張を続け、重税が課せられ続けた。日比谷焼打ち事件の背景には、勿論これらのことがあったんじゃな。『日比谷事件の原因は、倍賞金を取らなかったからではなくて、戦争したからだ』と言われる所以じゃ」
13、三郎「わしの子供の頃、しょっちゅう聞いた戦争物語を聞かせてやるぞ。日清戦争については、ラッパ手木口小平(キグチコヘイ)じゃ。明治37年4月から使われた国定教科書に『キグチコヘイガ、テキノチカクデ、スコシモオソレズ、三ドマデ、イサマシク、シングンノラッパヲフキマシタ。・・・ガ、コヘイハ、タマニアタッテ、タフレマシタ。アトデミタラ、コヘイハ、ラッパヲクチニアテタママデ、シンデイマシタ』とあったようだ(余談じゃが、このラッパ手の名前、最初は白神源次郎だったのが、いつの間にか木口小平に変わったそうじゃ。なんか事情があったんじゃな)。日露戦争となると、広瀬武夫海軍少佐・橘周太陸軍少佐、乃木希助・東郷平八郎両将軍などなど数多くなったぞ。前の二人は戦死したから軍神じゃ。後の二人は、指揮官だが、乃木さんは旅順攻略で多数の部下を戦死させた、という失敗コミで英雄とされたし、東郷さんはバルチック艦隊を撃滅したという成功で英雄とされ、どちらも神社が建てられておる。・・・これが昭和初期も、子供たちの軍国主義昂揚に役立ったんじゃ」
14、三郎「これで終わりにするが、冒頭の話に振りかえらんならんぞ。半藤一利さんは『日露戦争は日本の自衛戦争だった』と言うし、山田朗さんは『日本側からすれば自衛戦争を建前とした日露戦争ではあったが、講和会議に日本が出した条件から見て、<日露戦争が朝鮮の支配と南部満州を日本の支配範囲として確保するための戦争であった>ことが分かる』と述べておるんじゃな。・・・日露戦争について半藤さんは『ほんまの自衛戦争』と言うし、山田さんは『自衛戦争というのは建前であって、ホントは日本の膨張主義(帝国主義)だった』ちゅうこっちゃ。①先ず自衛戦争とは何か?じゃな。ロシア軍が北海道に攻めてきた場合の防衛戦争は間違いなく自衛戦争じゃな。なんちゅうたって北海道は日本領土じゃから。個人に例えれば、あんたが誰かに殺されそうになって、おのれを守るために相手をたたきのめすのが自衛であるのとおんなじじゃ」
15、三郎「半藤さんは<自衛じゃ>、というたが、日本がロシアから守ろうとしたのは朝鮮や満州じゃ。・・ということは満州や朝鮮は日本国??・・いや、これは違うのう。満州は中国領だし、朝鮮は朝鮮(大韓民国)じゃから、日本領じゃない。とすれば、半藤さんは『朝鮮・満州に日本が様々な権益を持っているから、その権益を守ろうとした。だから自衛だ』というわけかい?それとも『ロシアは、満州や朝鮮を取ったら次には日本を取りに来る。だから機先を制して、早めにロシアをやっつけて日本を守るんじゃ』ちゅうことかいのう?権益にしても日本領土にしても、どっちも、『機先を制して守るんじゃ』ということが、これが自衛かどうか?・・・じゃな」
16、ここで思い出すことがあるぞ。明治政府以来権力をふるった山県有朋が言うてきた『利益線を守れ』ちゅうこっちゃ。利益線とは、日本の国境線の周りにある他国のことじゃ。山県は『利益線を抑えておかんと国境線を守ることができん』と言うたんじゃ。はやい話が、中国とか朝鮮とかが利益線になるのう。いや、もっと広げれば、フイリピンとかマレーシャとか、インドネシャなどなども入ってしまうかいのう?山県が一番に考えたのが朝鮮じゃった。・・・利益線を広げて、それを日本が抑えておけば、そりゃあ、日本本土は相当安心できるわい。・・・そう考えたら日露戦争で日本がロシアに取られまいとしたのは、日本の利益線じゃったんじゃな」 六郎「利益線を日本の本土とおんなじくらい大事に考えたら、日露戦争も自衛戦争だ、ということになりますかな?」
17、六郎「利益線持てば安全、なのはよく分かりますが、それは、結局、近い国に対する侵略じゃないですか?」 三郎「そうなんじゃ。各国がそれぞれ<わしゃ、利益線が欲しい>ちゅうたら、こりゃ戦争が絶えんぞ。・・・19世紀後半頃の帝国主義とは原理的に違うかも知れんが、軍備使うて他国を侵略する点では、同じようなもんじゃな。・・・半藤さんはしっかりした歴史研究家じゃから、その歴史認識には、ちゃんとした理由があるはずじゃがのう。<日本は、既に、満州・朝鮮に色々な利権を持っておった。その利権が侵されるのを防ごうとした。だから自衛だ>ちゅうことかいのう?あるいは、<いずれ日本に来る。先制防衛だ。先制防衛は自衛だ>ちゅうことかい?・・・・・」
18、三郎「日清戦争で、一応清国を追っ払って、日本は朝鮮に対する支配権を取った(山県流の利益線を確保した)。ところがロシアが朝鮮を狙うとる。更に満州も狙うとる。<日本は朝鮮を守りたいし、それに日本も満州が欲しい。じゃから、朝鮮についても満州についても、ロシアは日本の敵じゃ。じゃから戦ったんじゃ>・・・・・これじゃあ、ロシアは勿論のこと、日本も、一般には、<帝国主義だ>と言われるんじゃないかい?・・・それからな、<日清戦争で2万の死亡者を出して、朝鮮の支配権を手に入れた、ここでロシアに取られたら2万の戦死者に申し訳ない。何としても守らないと>という感情論を言う人もいるぞ。<日露戦争で9万もの戦死者を出した。その結果得た朝鮮や満州(の利権)を失えば、戦死者に申し訳ない。断固守らねば>という言葉もよく聞くぞ」
19、三郎「<利益線が利益線を生む>ちゅうことが、昭和の満州事変・満州国建国などにつながっておるんじゃ。一度手に入れると、それを更に広げようとしてしまうんじゃな。・・・・・ところで、後で話すつもりじゃが、満州事変・満州国建設については、<それは、満州民族が満州国を建国するのを手伝っただけじゃ。侵略でも何でもないぞ>という説明をする人もおるぞ。解釈・言い方は、ほんまに様々じゃのう!」
20、三郎「『川田稔著。原敬と山県有朋』に、著者が、山県有朋の言葉を分かりやすい現代語にして引用し説明したもの、が載っておるぞ。こうだ・・『山県は≪日本は小さな島国であるがゆえに、人口過剰によって大陸に発展する必要があり、そのことは中国にとってもロシアの支配に比べれば相対的に有利なことである。したがって、アジア自衛の観点からも、また日本と中国の共存共栄のためにも、日中間で協力していく必要がある≫というのである。ここで日中協力を主張するのは、山県自身いうように、中国での≪日本の利益線を進むる≫ためであった』・・じゃ」 六郎「随分身勝手な山県節に聞こえますね。当時の日本の国土と人口は?」 三郎「国土は、<現在の日本列島+台湾(日清戦争で得た)>で、人口は<4000万人くらい(現在の3分の1)>かな」 六郎「それで人口過剰??」
21、三郎「余談になるが、同じ著書から山県の人柄に関する記述を引用して、2〰3聞かせてやろうかのう。『山県は、強烈な権力意志から陸軍・官僚組織・貴族院・枢密院・宮中などに巨大な派閥網を築きあげ、それを確固たるものにすることに心をくばってきたのである。このころ山県は、≪人は権力を離れてはならぬ事なり。故に自分も権力を維持する事には心を尽し居る者なり≫との言葉を残している』・・じゃ」 六郎「選挙に敗れた自民党、の某氏、を思い出させますね」 三郎「そうじゃ、そうじゃ。・・・明治27年の日露戦争では、山県は第1軍司令官として朝鮮半島を北上したんだが、朝鮮・中国の国境を越えて北京・天津攻略を主張したんだ。そこで、列強の干渉を心配した伊藤博文らが(病気だ、という理由をつけて?)山県を解任して軍監にしたんじゃ。多分山県は、なかなか自説を曲げんかったんじゃないかい?この事件はマッカーサー将軍を思い出させるぞ。・・・昭和25年に始まった朝鮮戦争の時に、マッカーサー将軍も、鴨緑江迄押し返した時に、トルーマン大統領に『満州爆撃じゃ、東シナ海港湾封鎖じゃ、原爆でも・・』などと進言して、突如大統領から首にされたんじゃ。よう似とるわい!・・・とにかく、山県は、どちらに向かっても、<傲岸不遜政治家>だったんじゃ」
22、三郎「引用を続けるぞ。『山県は≪普通選挙となれば国は滅ぶべし≫として、なおその実現を極度に警戒していた。・・・山県が、<普通選挙は社会主義と同様、明治憲法体制を崩壊にみちびき、藩閥官僚勢力の権力的地位を一気に突き崩しかねないもの>、と考えていたからではないかと思われる。・・山県は、かねてから労働運動や社会主義運動に対して強い警戒感をもっており、徹底した取締りをもって対処すべきだとしていた』・・・。山県有朋と言えば、今もある、あの目白の椿山荘、そのほか、豪勢な邸宅をいくつも保有しておったんじゃ」 六郎「ますます、<選挙に敗れた某党の某氏>を思い出させますね。それと、今現在も、<明治の歴史から学べるものが多い>と感じますよ。<内にも外にも傲岸不遜で臨む為政者のもとで、重税・軍拡・徴兵・戦傷で苦しみ、無為に戦死し、他国民からの無用な反感を買った、そんな庶民が、多数いた>んですね」
23、三郎「・・・これでおしゃべりを終わるが、最後に、日露戦争の頃の、外国新聞の記述を、二つ、語るぞ。・・・先ず、日露戦争最中のフランス紙『ル・タン』の記事じゃ。『この戦争が朝鮮と満州の勢力範囲をめぐる戦争で、自国領土の争奪でないのだから、両国とも深手を追うことなく解決できるであろう』じゃ。・・・それから、もう一つ。これは前に話したので、繰り返しになるが、あの、清国の新聞『申報』が日露戦争前に書いた文章じゃ。『ロシアにはすでに領土併合の謀があり、日本もまた、鋭くすきをうかがっている様子がある。他日、両国が中国を欲しがることで、突然戦争が始まり、必ずや中国の辺境が戦場となるだろう。日本がロシアに勝とうと、ロシアが日本に勝とうと、中国はいちばん先に災難を被り、人民はますます耐えがたい塗炭の苦しみをなめることになる』じゃったな。・・・いずれも、現実はその通りになったぞ。<日露、の、深手を負うことのない解決>と、<中国、の、耐えがたい塗炭の苦しみ>じゃ。・・・・・さてと、日露戦争は、やっぱり、<日本の自衛戦争じゃった>んかいのう?・・・・・」